KAIENTAIの青春群像――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第306回(1998年編)
その後、TAKAがヒール・サイドに合流してKAIENTAIがバージョンアップされ、悪党マネジャーとしてヤマグチ・サン(ウォーリー山口)が加入。8.30“サマースラム”ではKAIENTAI対オディティーズ(ゴルガ&ジャイアント・シルバ&ケラガン)の4対3ハンディキャップ・タッグマッチがラインナップされた。この試合はコミック・マッチの古典としていまもマニアのあいだで語り継がれている。
KAIENTAIが全米をツアーした約9カ月間、TAKAとトーゴーがプエルトリコのサンファン、フナキが家族とともにテキサス州サンアントニオ、テイオーがニューヨーク・ニューヨークのアパートメントとそれぞれ生活のベースを別べつにしていたため、4人組のユニットは毎週金曜か土曜にどこかの州のどこかのエアポートで待ち合わせをして、3日間から4日間のツアー日程のあいだだけ行動をともにするという“巡業スタイル”をとっていた。
WWEの“同期”にはエッジ、クリスチャン、マットとジェフのハーディー・ボーイズといった近未来のスーパースターたちがいた。あのザ・ロックも同期といっていい近しい関係の仲間のひとりだった。
WWE生活はいちばん長いけれどトシはいちばん若かったTAKAがこのとき25歳で、フナキが30歳。トーゴーは29歳で、テイオーは32歳だった。それぞれがそれぞれのこれからをイメージしたとき、KAIENTAIは発展的解消を選択した。
トーゴーは新団体・大阪プロレスの旗揚げに協力し、テイオーは大日本プロレスに活動の場を求めた。
TAKAは2002年までWWEに在籍し、それまでプエルトリコで主宰していたプロレスラー養成スクール“KAIENTAI-DOJO”を日本に逆輸入して団体化。フナキはその後、12年間にわたり貴重なバイプレーヤーとしてWWEスーパースターのステータスを守りつづけたのだった。(つづく)
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文/斎藤文彦 イラスト/おはつ
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