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名古屋人が「最も行きたくない街1位」でも、全く気にしない理由

徳川宗春の失脚により安定志向の経済確立へ

 そんな名古屋に転機が訪れたのが第7代藩主・徳川宗春の時代だ。時の将軍・吉宗は倹約に努めたが、宗春は消費によって経済を回すという、およそ江戸時代とは思えぬ先進的な経済政策を取り入れた。 「常設の芝居小屋をつくり、遊郭を公認し、相撲興行を許可するなど、“パッと遊べ”と号令をかけたのです。宗春の治世で名古屋は京都を上回るほどの華美な繁栄を手にし、全国各地から人が集まり、人口は40%も増加しました。ところが、領民が浪費を覚えてしまったことで、次第に財政は逼迫。最終的に、宗春は御三家でありながら吉宗に謹慎を言い渡されるという屈辱的な仕打ちを受けることとなりました。そして、この出来事は浪費による大借金の苦しみとともに名古屋人の記憶に深く刻まれ、以降、地に足のついた質実剛健な経済を目指すようになったわけです」  その結果、流行や華やかさよりも「損か得か?」を重視する功利的な市民性が定着したと清水氏。その功利主義的な市民性は庶民だけでなく、藩主にも大きな影響を及ぼし、戊辰戦争の際には御三家でありながら官軍に味方し、名古屋徳川家はお取りつぶしを免れたことにも表れている。名古屋人特有の経済観念は受け継がれ、経済基盤は盤石となり、バブル景気にも浮かれず、安定した社会を形成。宗春を反面教師としたことが今の名古屋の経済的安定を招いたとも言えよう。 「ですから、都市ブランド・イメージ調査において圧倒的な最下位であっても、名古屋はノーダメージなのです。なぜなら、名古屋人にとっての社会は名古屋で完結しており、経済も安定しているから他都市と比較することなど意味がない。コンプレックスを感じるどころか『ツレ同士で幸せに暮らしているのだから、よそ者がつべこべ言うな。名古屋は名古屋だけのもの』という“大名古屋思想”が当たり前となっているのです」  “大いなる田舎”と批判されても、名古屋人にとっては「だからこそ安住できる祖国」ということになる。この閉鎖性が、いつまでも名古屋を名古屋たらしめている最大の要因でもある。 「地政学的には、東京にも大阪にも近く、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑のように天下人を輩出するポテンシャルはあります。しかし、天下を取っても、名古屋人にとってはツレの一人という枠を出ません。例えば、信長は『バカな格好でうろついとったうつけ者だがや。昔のことを知っとるで威張られてもピンとこんわ』となり、秀吉は『中村(※秀吉の出身地)のサルだがや』、家康は『那古野城の人質だがや。人質殿が将軍様だと言われても実感がわかんなぁ』となる。どこまでいってもツレ・コネクションの一員という扱いで、それゆえに三英傑は都を名古屋に置かず、全国区で成功した名古屋人は、名古屋に帰ろうとしない。このツレ文化が煩わしくて外に出ていく若者は多く、実は私もその一人でした(苦笑)」  外から見ると地味で存在感がなくとも、健全な経済に支えられたツレ社会の中では最高に居心地のいい都市、それが名古屋。誰に何と言われようが、名古屋人にとっては柳に風なのである。 【清水義範氏】 小説家。’47年、名古屋市生まれ。愛知教育大学卒。’81年に『昭和御前試合』で文壇デビュー。著書に『笑説 大名古屋語辞典』ほか多数。近著に『日本の異界名古屋』(ベスト新書)がある 図版作成/前之浜ゆうき
―[大名古屋論]―
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