雑学

名古屋人が「最も行きたくない街1位」でも、全く気にしない理由

 名古屋市観光文化交流局の調査で「最も行きたくない街」で1位という不名誉な称号を得てしまった愛知県名古屋市。週刊ポストでは「名古屋嫌い」という特集まで組まれ、気がつけばなぜかバッシングの対象になってしまったが、当の名古屋人たちはこうした話題に「確かにそうかもねぇ~」と上の空。果たしてその思いは自信からくるのか、はたまた諦めからくるのか。

 だがしかし、行きたくない街だからといって、その街が廃れているとも、住みやすくないとも言えるものではない。本当に世間で言われるほど、名古屋はダメな街なのか。小バカにされ続ける名古屋の底力、名古屋の真の姿に迫った。

名古屋

濃尾三川に囲まれ、東海道五十三次でも飛ばされた独立国


 名古屋の異質性を知るには、まずその歴史をひもとかねばならない。名古屋は、1610年に徳川家康の命によって、それまでの清洲に代わる新しい国府として生まれた。本来ならば中部地方の中心都市として賑わっていたはずである。だが、当初から名古屋は“閉じた社会”であったと名古屋出身の作家・清水義範氏は指摘する。

「江戸時代最大の交通路であった東海道は名古屋城下を通っておらず、手前の熱田から桑名へ船で渡るルートになっています。これは東海道で唯一の海路であり、なぜそこまでして名古屋を避けたかというと、木曽川・長良川・揖斐(いび)川の“濃尾(のうび)三川”と呼ばれる大河の存在があったからです。江戸時代は基本的に川に橋を架けず、人力で渡らねばならなかったので、濃尾三川を横断するのは困難。それゆえ、旅人たちは名古屋を迂回し、城下町は仲間内の名古屋人だらけの社会になったのです」

 新幹線の停車駅やイベントの開催、チェーン店の進出が名古屋とその周辺を避ける“名古屋飛ばし”の元祖は、東海道五十三次の時代からあったのだ。だが、それにより、幸か不幸か名古屋は江戸・大坂から独立性を保つこととなる。濃尾三川を隔てた桑名(三重県)では関西弁の影響が強いが、名古屋は独自の方言を保っているのがその証しだろう。名古屋は関東の「バカの文化」でもなく、関西の「アホの文化」でもなく、いまだに「たわけの文化」なのである。

「交通の要衝から外れてしまった名古屋ですが、濃尾平野は気候が温暖で農業が発展しており、62万石という非常に豊かな土地だったため、経済的に困窮することはなかった。しかも、尾張藩は御三家の筆頭ですから、名古屋人が江戸や大坂に対して引け目を感じることもない。仲間内で満ち足りた生活ができる気楽さがあり、さながら独立国のような精神性が育まれることになったのです」

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安定志向の経済に向かった理由

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