ボボ・ブラジル “黒い魔神”のアイアン・ココバット”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第16話>
黒人対白人の初めての因縁ドラマは、ボストンでおこなわれたブラジル対キラー・コワルスキーの連戦シリーズだった。
その後、ブラジルはバディ・ロジャースのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦(1962年10月18日)。ロジャースが3本勝負の3本めに急所を強打して試合続行不可能=棄権となったためレフェリーがブラジルの判定勝ちをコールし、いったんはブラジルの手にチャンピオンベルトが渡ったが、試合後に裁定がくつがえった。
もちろん、ブラジルがベビーフェースで、ロジャースがヒールというシチュエーションだったことはいうまでもない。“まぼろしの世界チャンピオン”というドラマツルギーはいかにも悲劇のヒーローらしかった。
また、“負傷”で試合放棄(タイトルマッチ・ルールにより王座移動はなし)といういわゆる疑惑のエンディングは、ロジャースのもっとも得意とするところでもあった。
ブラジルはその後、ルー・テーズ、ジン・キニスキー、ドリー・ファンク・ジュニア、ジャック・ブリスコら1960年代から1970年代の歴代のNWA世界王者に挑戦し、いずれも60分フルタイムのドローを演じた。
ロサンゼルスではWWA世界ヘビー級王座を2度獲得(1966年9月2日と1968年1月12日、いずれもキラー・バディ・オースチンを下す)。
デトロイトを中心とした五大湖エリアを舞台とした“永遠のライバル”ザ・シークとのUSヘビー級王座をめぐる闘いは、おたがいが60代に手が届くなるまでつづいた。
日本のリングではジャイアント馬場(1968年6月25日=名古屋)、大木金太郎(1972年12月1日=横浜)を下し通算2回、インターナショナル王座を獲得した。
このインター王座は日本プロレス崩壊後、全日本プロレスのリングで復活。1989年(平成元年)4月、三冠ヘビー級王座に統一後も馬場、ブラジル、大木らがその腰に巻いたチャンピオンベルトがそのまま使用された。
●PROFILE:ボボ・ブラジルBobo Brazil
1924年7月10日、アーカンソー州リトルロック生まれ。少年時代をミズーリ州イースト・セントルイスで過ごす。トレードマーク技はアイアン・ココバット(頭突き)。初来日は1957年(昭和32年)。日本でのニックネームは“黒い魔神”。日本テレビのプロレス中継では、花束嬢から受け取った花(なぜか菊の花の場合が多かった)をむしゃむしゃ食べてしまうという変わったパフォーマンスを定番シーンにしていた。1998年1月20日、脳こうそくで死去。享年73。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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