パット・オコーナー コミスキー・パークに3万8622人の大観衆――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第13話>
ルー・テーズがアメリカのレスリング・シーンの表舞台から姿を消した数年間、テーズの“代役”をつとめたスーパースターといっていい。
アマチュア・レスリングのバックグラウンド、正統派らしいサイエンティフィック・レスリング、クリーンカットなイメージとどれをとっても典型的なベビーフェースで、アメリカ英語とはちょっとちがうニュージーランド・アクセントのおしゃべりが人気者としての隠し味になっていた。
1950年代前半は、シカゴのドゥモン・ネットワークDumont Networkが毎週土曜夜に全米放映していたプロレス中継番組“レスリング・フロム・マリゴールド・ガーデン”の花形スターとして活躍。
当時、もっとも美しい技といわれたオコーナー・ロール――ローリング・リバース・クレイドル(後方回転エビ固め)――の開発者としても知られる。
カナダ・モントリオールでキラー・コワルスキーを下しAWAインターナショナル王座(1954年7月21日)、トロントでロード・レイトンLord Laytonを退けブリティッシュ・エンパイア・ヘビー級王座(1956年3月29日)といったローカル・タイトルを獲得。
NWAの総本山セントルイスのキール・オーデトリアムでテーズのライバルだったディック・ハットンDick Huttonを下してNWA世界ヘビー級王座を奪取(1959年1月9日)。同王座を2年5カ月間にわたり保持した。
オコーナーの32年間のキャリアのなかでプロレス史に残る重要な一戦は、“野生児”バディ・ロジャースとのタイトルマッチだった。
1961年6月30日、シカゴのコミスキー・パークで開催されたNWA世界ヘビー級選手権は3万8622人の大観衆を動員(興行収益17万5000ドル)。
この数字は、アメリカ国内におけるプロレス興行の有料入場者・興行収益新記録となった(それから26年後の1987年3月29日、“レッスルマニア3”ポンティアック・シルバードーム大会――メインイベントはハルク・ホーガン対アンドレ・ザ・ジャイアント――が記録更新)。
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