ウィルバー・スナイダー サイエンティフィック・レスラー ――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第17話>
スナイダーの出世試合は、デビューから2年めに偶然、実現した“鉄人”ルー・テーズとのシングルマッチだった(1955年1月15日)。
その日、TVマッチのメインイベントにはテーズ対ビル・ミラーのタイトルマッチが組まれていたが、ミラーがケガで欠場となったため無名の新人だったスナイダーが代打として急きょ試合に出場した。
テーズ対スナイダーのシングルマッチは30分タイムアップのドローに終わり、スナイダーは一夜にしてNWA世界ヘビー級王座へのトップコンテンダーに急浮上。カリフォルニア・コメット(カリフォルニアの彗星)というニックネームが与えられた。
それから2カ月後にタイトルマッチとしておこなわれた再戦は、こんどは90分時間切れの引き分けとなった(1955年3月25日=ミズーリ州セントルイス)。
テーズ対スナイダーのタイトルマッチは定番カードとなり、そのまま全米をロードショー・ツアー。まさにシンデレラ・ストーリーだった。
得意技は、両足をきれいにそろえてジャンプするスタンディング・ドロップキック、ロープの反動を利用したスクープ・スラム(カウンターのボディースラム)、アブドミナル・ストレッチ(ドロップキック)の3つ。飛び技、投げ技、絞め技の3拍子ということになる。
初来日は、日本プロレスの1966年(昭和41年)の『第8回ワールド・リーグ戦』。公式リーグ戦決勝戦に進出し、ジャイアント馬場と対戦した(馬場が初優勝)。
それから3年後、1969年(昭和44年)の2度めの来日では、NWA世界ジュニアヘビー級王者ダニー・ホッジとのコンビで、馬場&アントニオ猪木のBIコンビを破り、インターナショナル・タッグ王座を奪取(1月9日=広島)。このタイトルマッチは1シリーズに4回も実現するほどの人気カードだった。
このとき39歳でまさに全盛期にあったスナイダーは、25歳の猪木を完全に格下扱いした。そのレスリングの“間”は猪木のファイトスタイルに大きな影響を与えたといわれている。
●PROFILE:ウィルバー・スナイダーWilbur Snyder
1929年9月15日、カリフォルニア州サンタモニカ生まれ。後年の公式プロフィルでは、ホームタウンはインディアナ州カーメルと記載されている。カレッジ・フットボール(ユタ大学)からプロレス転向。1956年、バーン・ガニアを下しNWA・USヘビー級王座を獲得(通算3回)。1958年にもガニアを下しオマハ版AWA世界ヘビー級王座を獲得。1967年、インディアナポリス版WWA世界ヘビー級王座を獲得。1991年12月25日、リンパ性白血病で死去。享年62。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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