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ワフー・マクダニエル トマホーク・チョップ=通過儀礼――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第37話>

ワフー・マクダニエル トマホーク・チョップ=通過儀礼<第37話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第37話は「ワフー・マクダニエル トマホーク・チョップ=通過儀礼」の巻。(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 プロ・フットボールのスター・プレーヤーからプロレスに転向して成功を収めた第一人者であり、アメリカのプロレス史でもっとも一般的知名度の高いメイティブ・アメリカンだった。  “ワフー”はインディアン・ネームの愛称だが、フットボールの公式記録ブック『フットボール・エンサイクロペディア』には現在でもこの“ワフー”がエドワード・マクダニエルのミドルネームとして記載されている。  オクラホマ大フットボールで活躍後、1961年から1968年までの8シーズン、ヒューストン・オイラーズ、デンバー・ブロンコス、ニューヨーク・ジェッツ、マイアミ・ドルフィンズの4球団に在籍した。  1962年のオフ・シーズンにシカゴのプロモーター、フレッド・コーラーとジム・バーネットにスカウトされ、期間限定でプロレス転向。その後、7年間はフットボールとプロレスの二足のわらじをはいた。  マクダニエルが純血のネイティブ・アメリカンだったかというとそうではなくて、じっさいはチャクトー・インディアン、チカソー・インディアン、白人の混血だった。  ネイティブ・アメリカンの血は全体の5パーセントほどに過ぎなかったとされるが、オクラホマ生まれでテキサス育ちのマクダニエルは父親ヒュー“ビッグ・ワフー”から受け継いだ先住民族としてのバックグラウンドをひじょうに大切にした。  プロ・フットボール選手として活躍したのは23歳から30歳までの8年間で、プロレスのキャリアはトータルで34年間だったから、フットボールのフィールドよりもリングの上で過ごした時間のほうがはるかに長かった。  マクダニエルにプロレスをコーチしたのはドリー・ファンク・シニアで、トレーニングの実験台はまだウエスト・テキサス大在学中のテリー・ファンクだった。  マクダニエルは“スター・マグネット=スターを生む磁石”と形容される不思議な力を持っていたといわれている。  典型的なベビーフェースのマクダニエルと試合をするヒールは、例外なくスターになっていった。1970年代前半のAWAでは“スーパースター”ビリー・グラハムがマクダニエルとの因縁ドラマのなかでメインイベンターに変身し、70年代後半のノースカロライナではリック・フレアーがマクダニエルのトマホーク・チョップの洗礼を受けた直後に大物ヒールの道を歩みはじめた。  フレアーのトレードマークのひとつである“Wooo”という雄叫びは、もともとはネイティブ・アメリカンのマクダニエルをおちょくるためのパロディ芸で、十八番の“音の出るバックハンド・チョップ”もマクダニエルとのチョップの打ち合いのなかで自然にフレアーのフェイバリット技のレパートリーとして定着した。  マクダニエルのイニシエーション=通過儀礼を体感し、フレアーは“リック・フレアー”としての自我にめざめたのだった。
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ひとつのテリトリーに長く定住することを好まない“流浪のレスラー”
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