ザ・グレート・カブキ アメリカ人が考案した“東洋の神秘”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第59話>
アメリカで成功したジャパニーズ・キャラクターの代表格である。
それまでのアメリカにおける日本人レスラーの基本形が坊主頭、田吾作タイツ(ニー・タイツ)、下駄、“塩攻撃”、そしてパールハーバー(奇襲攻撃=闘う準備ができていない相手をいきなり襲う)だったとすると、ザ・グレート・カブキはこのあまりありがたくないステレオタイプを1980年代モードにアップデートさせた功労者ということになる。
1964年(昭和39年)10月、力道山死後の新体制・日本プロレスで16歳でデビュー。若手時代のリングネームは高千穂明久(たかちほ・あきひさ)で、日本プロレス末期には次代のメインイベンター候補といわれていた。
“大物”ジョニー・バレンタインを下してUNヘビー級王座を獲得するという大番狂わせを演じたこともあった(1973年=昭和48年3月8日、栃木・佐野)。
日本プロレスが崩壊し、全日本プロレスに吸収合併=再契約後はサムソン・クツワダとのコンビではアジア・タッグ王座を獲得(1976年=昭和51年10月21日、福島)。
しかし、アメリカに活躍の場を求めて単身渡米。“東洋の神秘”カブキが突然、テキサスに出現したのは1981年(昭和56年)1月のことだった。
テキサス州ダラスのWCCW(ワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング)は“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックがオーナー社長をつとめる団体。
カブキは、悪党マネジャーのゲーリー・ハートGary Hartがシンガポールで発掘してきた格闘技の達人という設定でWCCWのリングに登場した。
“歌舞伎”の衣装を着た怪人がシンガポール人というのもヘンなはなしではあるが、アメリカの観客はそのあたりのディテールにはあまり矛盾を感じなかった。
カブキのキャラクターを発案したのはG・ハートで、カブキはその“中身”を演じるために当時ツアー中だったカンザス(リングネームはヨシノサトを略してミスター・サト)からダラスまで南下してきた。
G・ハートはカブキをマスクマンにするつもりだったようだが、カブキは「日本の歌舞伎を使うなら、まじめにやらなければダメだ」と主張し、顔にドーランを塗ってリングに上がるようになった。
“ペインティング”と総称される顔料は舞台用のドーラン、水性・油性の絵の具、女性用の化粧品をミックスして試行錯誤をくり返した。
髪を長く伸ばさなければカブキらしくないし、アメリカではなかなか手に入らない紋付袴、連獅子の衣装などは日本の知人から送ってもらい、チェーンと鎖のコスチュームは“日曜大工”になって自分でこしらえた。
カブキがカブキらしくなるまでに、やっぱり1年くらいかかった。
1
2
※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス読本」と書いたうえで、お送りください。
※日刊SPA!に掲載されている「フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー」が『フミ・サイト―のアメリカン・プロレス講座』単行本になり、電波社より発売中です
※日刊SPA!に掲載されている「フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー」が『フミ・サイト―のアメリカン・プロレス講座』単行本になり、電波社より発売中です
『フミ・サイトーのアメリカン・プロレス講座 決定版WWEヒストリー 1963-2001』 WWEはいかにして世界を征服したのか?幾多の危機を乗り越え、超巨大団体へと成長を遂げたその歴史を克明に描く「WWEの教科書」 |
この連載の前回記事
ハッシュタグ