リック・マーテル 遅れてきたオールドファッション――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第56話>
AWAがメジャー団体だった時代の最後の世界チャンピオン。1980年代のうねりに巻き込まれた“1970年代型のチャンピオン”だった。
オールドファッションなアメリカン・スタイルの継承者で、カラー・アンド・エルボーからのロックアップ、左からのサイド・ヘッドロック、テイクダウン、ハンマーロック、リストロックといった基本技のルーティンを大切にした。
いわゆる典型的な美形のベビーフェースではあったが、レスリングそのものはひじょうに地味で、回転エビ固めやボストンクラブをフィニッシュ技として使っていた。
ふたりの兄、ピエール・マーテル(別名フレンチ・マーティン)とマイク・マーテルのコーチを受け、1972年に16歳でデビューした。
ホームリングは英語とフランス語のバイリンガル圏のカナダ・モントリオールだったが、昔ながらのジャーニーマン・スタイル(旅がらす)で、10代のルーキーイヤーズをオーストラリア、ニュージーランド、ハワイの長期ツアーで過ごした。
20代前半は西海岸エリアのカナダ・バンクーバー、オレゴン州ポートランドのパシフィック・ノースウエスト地区に定着。ロディ・パイパーとのコンビでパシフィック・ノースウェスト地区タッグ王座についた(1980年3月29日)。
初来日は1976年(昭和51年)10月。ふたりの兄ピエール&マイク、ジプシー・ジョーらとともに国際プロレスの『勇猛シリーズ』に出場。
2度めの来日は1980年(昭和55年)2月、全日本プロレスのリングで、まだ無名の若手選手だったためテレビ中継に登場する機会はほとんどなかった。
AWAのボス、バーン・ガニアはマーテルをニック・ボックウィンクルに代わる1980年代の長期政権型のチャンピオン候補と考えた。
80年代前半のAWAのスーパースターはハルク・ホーガンだったが、ガニアはホーガンを“通過していくタレント”ととらえ、チャンピオンベルトをめぐる闘いからはできるだけ遠くにレイアウトした。
AWA世界ヘビー級王者ニックはジャンボ鶴田に敗れ王座から転落し(1984年=昭和59年2月23日、東京・蔵前国技館)、マーテルはその鶴田を下してAWA世界王座を手にした(同年5月13日、ミネソタ州セントポール)。
全日本プロレスのリングではリック・フレアーとの“史上初”のNWA・AWAダブル世界タイトルマッチも実現した(1985年=昭和60年10月21日、東京・両国国技館)。
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