ケリー・フォン・エリック 運命にほんろうされた“鉄の爪”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第57話>
数奇な運命をたどったスーパースターだった。
ケリー・フォン・エリックは、ほんの少年時代からケリー・アドキッセンではなく“ケリー・フォン・エリック”としてのアイデンティティーを義務づけられていた。
父親は地元ダラスでは“世界でいちばん有名なプロレスラー”でレスリング・カンパニーのオーナー、フリッツ・フォン・エリック。
“鉄の爪”エリックの息子たちは、まだプロレスラーとしてデビューするまえからダラスのセレブリティーだった。
ふたりの兄、ケビンとデビッドはケリーよりもひと足先に偉大なる父のあとを継いだが、ハイスクール時代から非凡なアスリートだったケリーは、陸上競技の奨学金をもらいヒューストン大学に進学。
しかし、大学は1年で中退し、ケビンよりも2年、デビッドよりも1年遅れてデビューすることになる。
エリック兄弟のトレードマークは、もちろん父親譲りのアイアン・クロー。このときすでにケリーはボディービルダーのような体つきをしていた。
デビュー当時から「スター性ではケリーがいちばん」というのが専門家の一致した意見だった。
すぐ上の兄デビッドの突然の死(1984年=昭和59年2月10日)がケリーの運命のエンジンをフル回転させていった。
デビッドの死から3カ月後、“デビッド・メモリアル・パレード・オブ・チャンピオンズ”と銘打ったスーパーイベントがテキサス・スタジアムで開催され、その主役には24歳のケリーが抜てきされた。
3万2123人の大観衆が見守るなかで、ケリーはリック・フレアーを下しNWA世界ヘビー級王座を獲得した(1984年5月6日)。
それから2年後の1986年6月4日、ケリーはテキサス州アーギルのハイウェイ373号線をバイクで走行中にパトカーと接触事故を起こし、右足、右足首、でん部の複雑骨折、内臓破裂の重傷を負う。
父エリックはこの年の2月にNWAを脱退し、ダラスに新団体WCCW(ワールドクラス・チャンピオンシップ・レスリング)を正式に設立したばかりで、“家業”のために復帰を急いだケリーは同年11月に松葉づえをついたままリングに上がったが、再び足首を骨折してしまう。再起不能説がささやかれた。
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