西成出身、元『men’s egg』モデルの今。抱え続けた葛藤、海外を旅するヒッピーに!?
休刊を経て、見事に復活を遂げた伝説のギャル雑誌『egg(エッグ)』。現在、再びギャルたちの姿が注目されつつある。その一方で、2013年11月号で休刊となったままの『men’s egg(メンズエッグ)』。あの頃、“ギャル男”だったモデルは今どうしているのだろうか。
大阪・西成の通天閣付近。観光客に混じりつつ、遠くからでもひと目でわかる旅人風の装いでふらりとやってきたのは元メンズエッグモデルの原田勇介氏(32歳)。日に焼けた肌、口元にはひげを蓄え、独特な雰囲気を醸し出している。
@yusukeharada)で発信されている。世界各国のディープスポットにひとりで飛び込み、いきいきとする姿が垣間みられるが……。
関西人の派手好きな性格とギャル男のファッションスタイルは相性がよく、かつて大阪を中心に関西圏でもギャル男カルチャーは大きなムーブメントとなっていた。
いまギャル男と聞けば、色白でナヨナヨしたイメージを持つ人も多いかもしれない。しかし、彼は幼い頃から黒人に憧れがあった。’90年代に“ギャルの教祖”と呼ばれた安室奈美恵がヒップホップを取り入れたスタイルであることからもわかる通り、黎明期のギャル男も黒人をリスペクトしたファッションが定番のひとつだったのだ。
中学1年生のとき、黒人さながらのモデルが表紙となったメンズエッグを見て「めっちゃカッコいい」と思った。そして、中学3年生の頃に姉の彼氏から影響を受け、本格的にギャル男に目覚めたという。
原田氏が新世界の名物である串カツを片手に、当時の思い出を振り返る――。
「雑誌初登場は16歳の頃、大阪で行われたストリートスナップでした。街で声を掛けられたのではなく、自分で編集部に電話をして、いつ大阪で撮影があるのか聞いたんです。その後、17歳で“センターGUY”(※マンバギャルの男版)をやっていたときの写真を送ったら、誌面で使ってもらえたこともあります。ただ、正式に“モデル”になれたのは21歳のときですね」
彼はアルバイトを転々とするフリーターだった。メンズエッグは憧れの雑誌で「いつか自分もモデルになりたい」と思い続けていた。当時は雑誌の公式サイトやSNSも普及していなかったが、夢を叶えるために自ら動いていたのだ。そして2009年、大きな転機が訪れる。
「関西のギャル男ブームに伴って、メンエグで頻繁に関西特集が組まれるようになって。ちょうど10年前、関エグモデル(※関西メンズエッグモデル)のオーディションが開催されることになったんです。チャンスだなって挑戦してみたら、グランプリを獲得できた。ちょうど同時期、渋谷系最先端だった有名ブランドの広告モデルにも起用されました。その後フリーペーパーの求人で見つけた大阪のアパレルメーカーのモデル募集に応募してみたら、正式に契約を結ぶことになりました。当時は単なるアルバイトしか経験がなかったのですが、いきなり普通の会社員以上の固定給が入るようになって戸惑いもありましたけど……いま考えると、その年は本当にラッキーでしたね」
すべてがガラリと変わった。レギュラー企画の関西特集に毎号登場、雑誌の目玉でもある巻頭ファッション企画で東京にも呼ばれた。人気モデルたちと自分が並び、プロのカメラマンから撮影される日々。街中で声を掛けられることも増え、まわりの目が変わっていくことを実感した。
西成で生まれ、西成で育った元メンズエッグモデル。そんな原田氏の近況はインスタグラム(
6年前、メンズエッグモデルとして順風満帆だった原田氏に訪れた雑誌休刊。人知れず、様々な苦難があったに違いない。実は世界を飛び回ることには、意外な理由が隠されていた――。
Contents
メンエグモデルになって人生がガラリと変わった
明治大学商学部卒業後、金融機関を経て、渋谷系ファッション雑誌『men’s egg』編集部員に。その後はフリーランスとして様々な雑誌や書籍・ムック・Webメディアで経験を積み、現在は紙・Webを問わない“二刀流”の編集記者。若者カルチャーから社会問題、芸能人などのエンタメ系まで幅広く取材する。X(旧Twitter):@FujiiAtsutoshi
記事一覧へ
記事一覧へ
この記者は、他にもこんな記事を書いています
ハッシュタグ