戦うしか生きる道はない。幼い頃からそう思っていた
――ボクシングはいつから?
田中:父はもともとボクシングが大好きで、本当は幼少期から習わせたかったみたいです。でも、住まいの近くには専門ジムがなかったから、まずは空手。そして小学5年生の頃にジムができたので転向。始めてみたらパンチをよけるのもすごく怖い半面、ジェットコースターみたいな気持ちよさもありハマりましたね。子供の頃からアマチュアの試合にも頻繁に出ていました。
――アマチュアでも、2年でインターハイ優勝、国体2連覇など十分な結果を残しています。
田中:よく「怪物」や「天才」とか言われますけど、全然そんなことはない、凡人ですよ。小中学生の頃は勝ったり負けたりを繰り返し、試合開始30秒でKO負けしたこともありました。負けた後は「パンチが怖い……」なんて時期もあり、気持ちが弱っているのか次の試合でも弱いパンチでも効いちゃったり……。負けた翌日は学校に行くのが嫌でした。「どうせみんな、俺が弱いって思っているんだろ?」みたいに卑屈になってしまって(笑)。
――負けた悔しさから、ボクシングをやめたいと思ったことは?
田中:一回もないです。幼少期から空手、ボクシング漬けの日々でした。勝ったり負けたりを繰り返して、将来はプロになれるのか、お金を稼げるのかなんて一切保証はなかった。でも、やめるなんて選択肢だけはなかったんです。自分には“戦うこと”しか生きていく道はない、と漠然と幼い頃から思っていた。
――幼少期の頃、脚の病気にもかかったそうですね。
田中:小学校に上がる少し前なんですけど、「歩き方がちょっとおかしい」と指摘されて気がつきました。股関節が壊死するペルテス病(※)で、手術を受けて1か月の入院、松葉杖や車いすで生活をしました。実は父も同じ病気で、2~3年かかって治しているんです。父はその後遺症で今でも左右の脚の長さや太さが違っています。僕の場合は今でも股関節がちょっと硬いですね。
※…大腿骨骨頭(股関節にはまっている部分)が血行障害により壊死する病気で、生後18か月から骨の成熟期までの間に発症する。2万人に1人の難病といわれる
――子供の頃だったら、特に大変だったのでは?
田中:学校には松葉杖で通っていましたね。イジメまではいかないけど、からかわれることも多かった。やっぱり傷つきましたもん、子供心に。
――今、ペルテス病の子供たちの慰問もされているそうですね。
田中:SNSでも同じ病気の人からメッセージをもらいますし、「試合を見て、元気をもらいました!」と言ってもらうこともあります。正直、慰問活動では僕のことを知らない子供もいます。でも、「君はいま悩んでいるかもしれないけど、お兄ちゃんはこんな元気だし、強いんだぞ!」という姿を見せて、頑張る一つの糧になったらいいな、と思っています。
※7/2発売の週刊SPA!のインタビュー連載『エッジな人々』から一部抜粋したものです
【田中恒成】
’95年、岐阜県生まれ。アマで高校4冠に輝き、’13年、高3の11月にプロデビュー。’15年には日本最速の5戦目でWBO世界ミニマム級王座を獲得。’16年には2階級目となる同ライトフライ級、’18年には同フライ級王座を獲得し世界最速タイの12戦目で3階級制覇を達成
取材・文/高崎計三 撮影/尾藤能暢 協力/酒田ボクシングジム