仕事

42歳日雇い男が“パパ”に戻った日。感じる成長、切ない気持ち

あの頃と変わらない笑顔

オムレツ「私ね……」  長い沈黙のあとに彼女がようやく口を開いた。 「うん、なに?」 「絵を描くのが好きなんだ。だから、絵を描けるところに行きたい」 「絵を描けるところか……」  僕はスマホでネット検索した。 「表参道にお絵描きしながら食事できるカフェがある。そこ行ってみる?」  絵里はうなずいた。そして少しだけ笑顔を見せた。また電車で移動してその店に到着した。店内には色鉛筆、コピック、マスキングテープ……など種々の文房具が豊富に用意されており、それらを自由に使って画用紙のランチョンマットにお絵描きできるのだという。  テーブル席に着いて料理とドリンクを注文した。それから絵里は席を離れ、店内の文房具をゆっくりと見てまわる。その間に僕の注文したコーヒーが運ばれてきた。  僕はそのコーヒーを見てふと思い出すことがあった。タイに住んでいた頃、僕がマグカップでコーヒーを飲んでいると、絵里はよくふざけてその中に物を投げ入れてきたものだった。あるとき、彼女が手に消しゴムを持って近づいてきたので、僕は慌ててマグカップの飲み口を手で塞いだ。 「ねえ、その手どかしてよ」 「やだよ。その消しゴムを入れるつもりだろ」 「入れないよ。そんなことするわけないじゃん」 「消しゴムっていうのはね、字を消すためのものであって、コーヒーに入れるものじゃないんだよ。それは知ってる?」 「うん、知ってる」 「だから、絶対にその消しゴムを入れないって約束して」 「うん、約束する。だから、その手どかして」 「本当に約束だよ」 「わかったって。しつこいな」  僕はマグカップの飲み口から手を離した。すると、絵里は僕と交わしたその約束を秒速で破って消しゴムをポチャリと投げ入れる。そして僕のほうに顔を向けて「きゃはははは」と笑うのである。  そのときのことを思い返してふふッと笑みがこぼれた。しかし、絵里が僕にそういういたずらをしてくることももうないのだろうか……。一抹の寂しさを感じながらコーヒーを一口啜った。  しばらくして料理が運ばれてきたので絵里を呼んだ。彼女はコピックなどのペンを何本か持って戻ってきた。絵里が注文したのは「お絵描きオムパスタ」というメニューで、ケチャップでお絵描きができるようになっていた。彼女はケチャップを手に取り、そのボトルの先端を卵生地に向ける。いったいどんな絵を描くのだろう……。その手の動きをじっと見つめた。彼女が最初に書いたのはひらがなの「」だった。  う? そしてそれに続けて書いたのは「んこ」という文字。彼女は顔を上げて言った。 「絵を描くと思ったでしょ?」  そして「きゃはははは」と笑う。僕のコーヒーに消しゴムを入れたときと同じ笑みだった。それに釣られようにして僕も笑った。僕と健人が食べている間、絵里は食べることよりもお絵描きに夢中になっていた。描いているのは最近の漫画風の絵柄の女の子だった。 「絵里は漫画も描くの?」 「四コマ漫画とかは描いてるよ」 「パパも小学生の頃によくノートに漫画を描いてたな。さっきのうんこで思い出したけど、『うんこぶりぶりマンの大冒険』って漫画を描いたこともある」 「それはどんな話?」 「便器に流されそうになったうんこがトイレから脱出して、外の世界を冒険しながらいろんな敵と戦う話」 「そのうんこはどんな攻撃をするの?」 「うんこを投げる」  それに健人と絵里は爆笑した。 「じゃあ、自分がなくなっていっちゃうじゃん」 「そうだよ。攻撃するたびに少しずつ自分がなくなっていく。そして最後は完全に消滅してしまう。そういうちょっと悲しい話なんだ」  やがて絵里はひとりの女の子の絵を描き上げた。それは僕が小学生の頃に描いていた漫画なんかよりも遥かに上手だった。
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子供との別れ際に…
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バイオレンスものや歴史ものの小説を書いてます。詳しくはTwitterのアカウント@kobayashiteijiで。趣味でYouTuberもやってます。YouTubeチャンネル「ていじの世界散歩」。100均グッズ研究家。

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