新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から一部のネットカフェには休業要請が出された。僕はネットカフェを寝床とする、いわゆる“
ネットカフェ難民”としての生活を送っていたのだが、あるときから
ゲストハウスに移り住むようになった。現在は客が減り、当日でも簡単に予約が取れるようになった。共有のリビングルームなども静かになり、
意外と快適な日々を過ごしている。
現在、日雇い派遣の仕事などで生活する筆者・小林ていじ(撮影/藤井厚年)
僕がゲストハウスに住むようになったきっかけは、コロナとは関係なく、クレジットカードを手に入れたことだった。
使っていたスマホを地面に落として壊してしまい、新しいものに買い替えるために携帯ショップを訪れた。そのときに対応してくれた女性スタッフからクレジットカードの申し込みをすすめられた。
「毎月の携帯料金のお支払いもクレジットカード決済にしたほうが便利でお得ですよ」
「カード作りたいですけど、今まで一度も審査に通ったことないんですよね。定職に就いていないので」
「今までダメだったからといって今回もダメとは限りませんよ。とりあえず、申し込むだけ申し込んでみましょうよ」
女性スタッフがそう言うので、ダメもとで申し込んでみることにした。すると、その数週間後に群馬の実家にクレジットカードが郵送されていたのである。
快適なゲストハウスでの生活
相部屋のドミトリー(※写真はイメージです。以下同)
これにより、僕の生活は大きく様変わりした。ネットカフェを卒業してゲストハウスを寝床とするようになった。ゲストハウスというのは二段ベッドがいくつも置かれた、ドミトリーと呼ばれる相部屋をメインとした宿泊施設である。
宿泊料金は1泊2000円前後。寝床としてはネットカフェよりもずっと快適で、コスパにも優れている。が、その予約にはどうしてもクレジットカードが必要だったのである。
ホテル予約サイトで都内のホテルを検索して料金の低い順に表示させると、ゲストハウスがズラリと並ぶ。大浴場付きのもの、寝台列車をイメージしたもの、メイドカフェを併設したもの……などそれぞれに特色がある。その中から適当に一軒を選んでクレジットカード番号を入力し、とりあえず一週間分を予約した。
そのゲストハウスは共同の広々としたリビングを備えており、そこで欧米人の若い男女が談笑していた。ゲストハウスは外国人旅行者の利用も多い。鬱屈した空気の漂う深夜のネットカフェとはまったく異なり、明るく爽やかな雰囲気に満ちていた。
共同のシャワールームで体を流してからドミトリーの自分のベッドに横になった。各ベッドは板で仕切られており、入り口のベッドカーテンを閉めればプライバシーが保たれるようになっている。枕元にはライト、コンセント、鍵のかかるロッカーを備えている。しかし、僕にとってなによりいちばん嬉しかったのは、ふかふかのベッドで体を真っ直ぐに伸ばして寝られるということだった。
白いベッドカーテンに他の宿泊客の影がうっすらと映り込んでいる。それに重なり合うようにしてずっと昔の記憶が脳裏でぼんやりと揺らいでいた。
日本でゲストハウスがその数を増やして広く認知されるようになったのはまだこの数年のことである。が、東南アジアでは30年以上も前から存在していた。僕がはじめて泊まったゲストハウスは香港の中心街に位置する日本人専用のところだった。
僕のベッドはドミトリーの窓際に位置していた。窓から差し込む、じりじりと焼けるような強烈な日差しで目を覚ました。上半身を起こして窓の外を覗き込むと、さまざまな店の看板が無数に突き出し、広東語の繁体字で溢れた通りをたくさんの人々とクルマが行き交っている。香港の街はもうとっくにその日の活動を開始していた。
そのとき、僕は24歳だった。
映画制作の分野での就職を希望していたのだが、そのチャンスをまったく掴めずにいた。知人に紹介してもらった映画プロデューサーに相談してみると、こう言われた。
「今の日本の映画業界は制作での求人はほとんどやってないよ。どうしても映画制作をやりたいのなら海外に出たほうがいいかもね」
僕はその言葉を真に受けた。そして独学で広東語を少しだけ学んでからまったくなんのあてもなく香港に飛び出したのである。
「おい、まだ寝てんのかよ」
白いベッドカーテンを開いて、スキンヘッドにバンダナを巻いた武(仮名)が顔を覗かせてきた。
「今起きた」
「メシ食いに行こうぜ」
武もこのゲストハウスの宿泊客だった。同じ年齢だったこともあってすぐに仲良くなり、香港にいる間はほとんどずっと彼といっしょに行動していた。大衆食堂で食事してから街中をぶらぶらと散策する。日が暮れると、対岸の香港島の夜景を眺めてからゲストハウスに帰った。
その夜はいつにも増して談話室が賑やかだった。いつもは男しかおらず、男子校の教室のようにむさ苦しかったその空間に2人の若い女の子が交じっていたためである。彼女たちは上海に留学しており、その休暇で香港に遊びに来たのだという。
いつもの面子に彼女たちが加わり、ビールを飲みながらトランプのダウトで盛り上がっていた。僕と武もそこに参加してテーブルを囲んだ。カードがシャッフルされ、全員に配られる。そしてひとりずつ手札を場に出していった。
「よし、これで俺の勝ちだ」
「ダウト!」
「ぎゃ―――ッ!」
笑い声が室内に響いた。タバコの煙は蛍光灯の放つ光の中をゆらゆらと昇っていく。アルミの灰皿は吸殻でいっぱいになっており、テーブルの下にはビールの空き缶が何本も転がっていた。
僕は香港に来たはいいものの、
夢に向けての行動はなにも起こさず、まったくなんの生産性もない怠惰な日々を過ごしていた。が、僕にとってはそんな毎日が楽しくて仕方なく、ずっと続けばいいと思っていたのである。