仕事

元・銀座の最短&最年少ママが、水商売のコロナ不況にできること

オーナーの死をきっかけに、銀座でママを目指す

桃谷優希 そんなある日、当時働いていた北新地のクラブ『城』のオーナーと帰り道が一緒になり、タクシーに同乗する機会があった。 「『城』はすごく居心地が良くて。まだヘルプでしたが、オーナーにもすごく可愛がってもらっていて、私はきっと、ずっとこのお店にいるんだろうなって思っていました。タクシーをご一緒した際、突然オーナーが“今のママも歳だし、俺も歳だ。優希ちゃんいずれ店を頼むよ、『城』だけは頼むよ……”と言ったのです。そして、心残りだったこととして銀座に進出できなかったことを打ち明けてくれました」  そんな会話を交わした3日後、オーナーは突然亡くなってしまった。桃谷さんは当時の専務からオーナーが亡くなったこと、そして『城』は今まで通り営業することを聞かされたが、結局すぐに『城』はなくなってしまったのだという。 「『城』で働いていたホステスやママは私も含め別のお店に移籍することになったのですが、大好きだった『城』がなくなってしまってショックだったこと、そして新しいお店に対して『オーナーだったらこういうことをしないのに』など不満もたくさん沸き上がってきました。そんな中でオーナーの葬儀が行われたのです」  オーナーを乗せた霊きゅう車は最後に北新地を通ることに。桃谷さんたちお店のホステス達もマイクロバスに乗り、オーナーの最後の姿を見届けるべくその後ろをついていった。すると霊きゅう車が北新地に入りクラクションを鳴らした瞬間、北新地の関係者がわっと表に出てきて霊きゅう車に向かって一斉に頭を下げた。  その瞬間、雨が降り始めたのだという。 「今でもこのことを思い出すと鳥肌が立ちます。これは会長が泣いているんだな、と感じて……“いつか私が『城』を復活させなければいけない”と使命感のようなものを覚えました」  この頃、桃谷さんは知り合いや客から「銀座に行ったら」と言われることが増えていた。 「最初はあまり興味がなかったのですが、そういえばオーナーが銀座に進出できなかったことを悔やんでいたことを思い出して、“私が銀座で再び『城』をオープンさせよう”と決めました。一人では途中で逃げて帰ってしまうような気がしたので母とともに上京しました」  着物スタイルを貫いていた桃谷さんはスーツケースいっぱいに着物を詰め込み、新幹線に乗り込んだ。

あえて厳しい環境に飛び込んだ

 銀座に降り立つと、その日からすぐに紹介された店で働き始めた。しかし銀座の街は「北新地から来た関西弁のホステス」にはかなり冷ややかな目を向けてきたそうで……。 「ヘルプのくせに着物を着ているやつ、と生意気に思われたのか、いじめの総攻撃。北新地では肉体的ないじめが多かったのですが、一方、銀座は精神的ないじめが多かったです。  ロッカーに入れていた化粧ポーチが毎日水浸しになっていたので仲のいいホステスに相談して励ましてもらっていたのに、実はそのホステスこそがいじめの主犯格だったり……わざと関西弁が嫌いなお客の席につけられ『お前のしゃべり方は虫唾が走る!』と言われたり……」  しかしヘルプだった桃谷さんは同伴ノルマがこなせないと日給が減ってしまう仕組みの中にいた。 「何を言われたってされたって、日々同伴してくれる人を探さないといけない状況。母を一緒に連れてきてしまったし、ヘアセット代も毎日5000円かかるから、まるで諭吉を目の前にぶら下げられながら全力疾走しているようでした。  宴席の端っこにいる“枝”のお客様(※メインの客が連れてきた人)と連絡先を交換したり、プライベートで行った飲食店で仲良くなった人に誰かいたら紹介してね、とお願いしたりして少しずつ数字を作っていきました」
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銀座で最短&最年少ママに
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