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大泉洋の“頼朝”には暗殺説がふさわしい? 大河ドラマ史上、最悪に嫌われた男の末路

大河が過去に描いた中で“最悪”にイヤな頼朝

鎌倉殿の13人

公式ホームページより

 生誕から875年の源頼朝が、今ほど嫌われている時代はないかも知れない。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の影響にほかならない。演じているのが大泉洋(49)であることから、放送終了後にはいつも「♯全部大泉のせい」がツイッターのトレンド入りする。大泉は苦笑しているのではないか。  そもそも頼朝は歴史上のヒールだ。大河でも描かれた通り、自分のために尽くしてくれた上総広常(佐藤浩市)を謀殺する一方、敵意のない従兄弟の木曽義仲(青木崇高)を討ち取ってしまったのだから好かれない。さらに自分の長女・大姫(南沙良、幼少期は落井実結子)と婚約させた義仲の息子・義高(市川染五郎)も殺した。平家滅亡の立役者である弟の源義経(菅田将暉)も死に追い込んだ。敵になりそうな人間は片っ端から殺してしまった。  おまけに脚本を担当する三谷幸喜氏(60)が作り上げた大泉版の頼朝はズルくてスケベでプライドが高いから、とことん嫌われる。大河では過去に6人の頼朝が登場したが、サイテーの鎌倉殿である。過去に頼朝を演じたのは次の面々である。第4作『源義経』(1966年)故・芥川比呂志さん、第10作『新・平家物語』(1972年)高橋幸治(86)、第17作『草燃える』(1979年)石坂浩二(80)、第32作『炎立つ』(1993年) 長塚京三(76)、第44作『義経』(2005年)中井貴一(60)、第61作『平清盛』(2012年) 岡田将生(32)。いずれの頼朝も冷酷な面があったものの、品格があって思慮深かった。  もっとも、三谷氏が歴史を捻じ曲げている訳ではない。むしろ過去の作品は頼朝を美しく描き過ぎたきらいがある。今回の時代考証は坂井孝一・創価大教授(62)ら3人が担当。いずれも平安・鎌倉期研究の権威だ。三谷氏は3人の助言を参考にして脚本を書いている。時代考証をないがしろにしてはいない。  頼朝は今後どんな運命を辿るのか。この大河の資料にもなっている史書『吾妻鏡』や『愚管抄』『玉葉』『保暦間記』『猪隈関日記』を基に読み解いてみたい。

血縁、老若男女にも容赦ない

 まず頼朝と義仲の叔父ながら、食わせ物のトラブルメーカーだった源行家(杉本哲太)は1186年、北条時政(坂東彌十郎)の甥・時定に討たれる。頼朝の命を受けてのことだった。行家はその1年前、義経と後白河法皇(西田敏行)に謁見し、頼朝追討の宣旨を受けていたから、これは自業自得だった。  一方、やはり頼朝から命を狙われた義経は寺社に匿われた。一部公家も擁護した。業を煮やした頼朝は義経捜索のために数万の大軍を編成する。スケールのデカイ兄弟ゲンカである。これに対し義経は正妻・郷御前(三浦透子)と幼い娘を連れ、奥州に逃げ込む。16歳から22歳まで育ててもらった藤原氏3代目の秀衡(田中泯)を頼った。1187年の春先だった。秀衡は温かく迎え入れてくれた。だが約半年後に病死してしまう。秀衡は死の前、息子たちに対し、「義経を大将軍として頼朝と対決するよう」命じた。  ところが遺言は守られなかった。秀衡の跡を継いだ4代目の泰衡は義経を襲う。1189年4月のことだった。泰衡は頼朝との関係悪化を怖れた。義経の住んでいた平泉の衣河館に数百騎の兵を差し向けた。逃げ場を失った義経は郷御前と女児を殺害した後、自刃する。31歳の時だった。それでも頼朝は奥州征伐に乗り出し、泰衡を滅ぼした。やっぱり嫌な奴だ。  頼朝は奧州制圧後の1190年、京に入る。因縁の相手である後白河法皇と対面した。この場で頼朝は法皇を支えてきた実績を主張し、今後も朝廷に仕えることを強調する。それまでは陰で法皇を「日本一の大天狗」と呼んでいたのだから、大した政治家である。これにより2人の緊張関係は緩和された。  その後、頼朝は約束通りに法皇に尽くすが、法皇は1192年4月に崩御する。この時、後鳥羽天皇はまだ幼かったため、関白の九条兼実(田中直樹)が朝廷の実権を握る。当時、頼朝とのパイプが太い存在だった。頼朝は朝廷内での人脈づくりも抜かりなかったのである。2人は協力して政治を運営する。  頼朝は法皇の崩御から約3カ月後、朝廷に大将軍の任官を申し入れる。兼実が取り仕切る朝廷が反対するはずがなく、頼朝は征夷大将軍に就いた。伊豆国に流されてから32年。天下取りに成功した。まさに「一将功成りて万骨枯る」だった。
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頼朝の殺害は終わらない
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