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大泉洋の“頼朝”には暗殺説がふさわしい? 大河ドラマ史上、最悪に嫌われた男の末路

7人の兄弟は誰一人として…

 それでも頼朝による殺害は終わらない。次の標的になったのは弟の範頼(迫田孝也)である。  まず「曾我事件」(1193年)が起きた。頼朝が巻狩り(獲物を四方から取り囲む狩り)を行った際、過去に伊東祐親(浅野和之)の長男・河津祐泰(山口祥行)を討った工藤祐経(坪倉由幸)が、祐泰の子供2人に仇討ちされたのだ。  この時、「頼朝が暗殺された」という誤情報が流れた。それを聞き嘆き悲しんだ政子(小池栄子)に対し、範頼が「自分がいるから鎌倉は大丈夫」と声を掛けた。励ましたのだろう。ところが、この言葉によって「範頼には謀反の意思あり」と疑われてしまう。もっとも、範頼が本当に謀反を企てていた可能性もあるから、ややこしい。「曽我事件」の直後、範頼の腹心が、なぜか頼朝の寝室の床下に潜んでいたのだ。  その後、範頼は伊豆の修善寺に幽閉され、処刑された。頼朝には兄が2人、弟が6人いるが、この時点で阿野全成(新納慎也)以外は故人となる。いやはや。全成は幼いころに出家し、政子の妹・実衣(安房局、宮澤エマ)と結ばれた僧だ。その全成にも悲惨な未来が待つのだが…。  気になるのは大好きだった義高を頼朝に殺された大姫だが、ずっと気落ちしたままだった。それでも懲りない頼朝は公卿の息子との政略結婚を画策する。だが、当の大姫が乗り気でなかった。そりゃそうだろう。大姫の悲劇は続く。1197年に病死してしまう。まだ20歳だった。頼朝の政略結婚計画に付き合わされた疲れの影響もあったと考えられている。頼朝は父親としてもろくでなしだったのだ。

落馬? 暗殺? 諸説ある頼朝の最期

 周囲の人間をさんざん不幸にした頼朝の最期はどうだったのだろう。興味深いものの、これがハッキリしない。まず鎌倉幕府で唯一の公式記録と言って良い『吾妻鏡』には頼朝が亡くなった経緯の記載がない。  頼朝が他界したのは1199年1月13日だが、『吾妻鏡』には同年1月の記載が抜けているのだ。翌2月に長男の頼家(金子大地)が跡を継いで征夷大将軍となったところから記載は再開される。ただし、なぜか13年後の1212年2月になって、頼朝の死に触れた下りが登場する。それによると、頼朝は1198年、相模川橋が新造された際の橋供養に出席した。その帰りに落馬し、ほどなく死亡したという。これが広く知られる「頼朝落馬死説」の根拠である。ちなみに橋供養とは渡り初めの前に、橋の上で行う儀式だ。  この橋供養が行われたのは1198年12月27日。頼朝は年が明けた1月11日に出家し、その2日後に死亡した。なぜ落馬後に出家し、その2日後に他界したのか。釈然としない。 『保暦間記』には安徳天皇や義経らの亡霊が頼朝の前に現れ、それが基で発病したと記されているが、いくらなんでも信じられない『猪隈関日記』には頼朝の持病である糖尿病(飲水病)が悪化したので出家したものの、死去したとある。これが一番、説得力があるのではないか。  もっとも、いずれの説も決め手に欠けることから、暗殺説もくすぶり続けている。法皇の崩御時より13歳、平清盛(松平健)より10歳若い51歳での他界だったせいもある。さて、三谷氏はどの説を採用するのか。おそらく暗殺説ではないか。  北条義時(小栗旬)と八重(新垣結衣)が結婚したという確かな史料はないのに、だからこそ2人を夫婦にしたのが理由だ。史実には抗わないが、確実な史料が見あたらない場合は大胆に推理するのが三谷流なのだろう。たぶん、これまでの物語は大泉版の頼朝が暗殺されるまでの布石でもあるのだ。頼朝を徹底的に憎悪の対象とし、最後は悲惨な末路を迎えさせる。すると見る側はカタルシスを味わえる。身分に大きな隔たりのある善児(梶原善)に殺されたら面白い。  頼朝の他界時、義時は37歳。いよいよ政治の表舞台に立つ。義時も嫌な奴になるはずだ。 <文/高堀冬彦>
放送コラムニスト/ジャーナリスト 放送批評懇談会出版編集委員。1964年生まれ。スポーツニッポン新聞東京本社での文化社会部記者、専門委員(放送記者クラブ)、「サンデー毎日」での記者、編集次長などを経て2019年に独立
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