聖徳太子はいない? 徳川家康は別人!? 学校では教えない“歴史の真実”
私たちが学校で学ぶ「歴史」は、その多くが「史実」とされている。ところが、中には史実かどうか疑わしい歴史もあることを、ご存じだろうか?
近年注目を集めているのが、聖徳太子と徳川家康。聖徳太子は「憲法十七条」を制定し、仏教を広めた人物で、徳川家康は戦乱の世を駆け抜け、江戸時代を切り開いた初代徳川将軍であることは、誰もが知っている史実だ。
だが近年、「聖徳太子は実在しない」「修行僧が徳川家康にすり替わっていた」という驚くべき説が浮上している。
今回は『新説 学校では教えない日本史』から、聖徳太子や徳川家康についての大胆な新説とその根拠をご紹介しよう。
日本人にとって、聖徳太子は最も親しみのある歴史上の人物のひとり。かつて、一万円札には太子の像が使われていたが、この像は奈良の法隆寺に伝えられている『聖徳太子及二王子像』をもとに描かれている。しかし、この肖像画は太子と同時代ではなく、時代がかなり下ってから描かれたものである。そのためこの図像を検証するといろいろな疑問が浮き彫りとなる。
まず、肖像画のなかで太子が手に持っている笏だが、これは太子の生きた時代である飛鳥時代には存在せず、正装のとき冠とともに持つようになったのは奈良時代のことである。
太子が着ている装束についても、この服を皇族が着るようになったのは、天武天皇の時代からである。天武天皇の時代といえば太子が亡くなってから約六〇年後の時代である。
さらに、太子の被っている黒い冠は、この装束を着ている際には着用しない決まりだった。奈良時代は朝廷での服装について、その細部にわたって規則があったのである。
あごの髭にいたっては、後世に描き加えられたものらしい。『聖徳太子及二王子像』は、その画風から、唐の肖像画を模して制作されたのではないかともいわれ、近年では教科書からも消え始めているのである。
このように、太子に関する謎は一万円札一枚からもいろいろとうかがうことができるのだ。
そもそも聖徳太子という名前は、後世に贈られ、それが平安時代の半ば以降一般化したものである。存命中は厩戸皇子、上宮王、豊聡耳皇子などと呼ばれていた。
われわれが「聖徳太子」として思い浮かべる人物は、姿も名前も飛鳥時代に政界で活躍した人物とはかなりかけ離れてしまっているのである。
太子は、自ら天皇にならず推古天皇の摂政として政治を行ったとされている。だが、太子自身が天皇になっていたという説もある。
その根拠のひとつが、現存する太子の最古の伝記『上宮聖徳法王帝説』である。帝説とは、「天皇に関する伝記」という意味である。この表題は、伝記の作者が太子を天皇として見ていたことを意味している。
また中国の史書である『随書』倭国伝の記述も、太子が天皇になっていた証拠であるとされる。『随書』に登場する六〇〇(推古八)年の倭国王の名が、男性名なのである。
日本史の上では推古天皇の存位期とされるが、この時期の天皇は男性、つまり政治の中心であった太子が天皇だというのである。
諸説ある太子論のなかには、聖徳太子そのものの存在についての疑問を唱える説もある。
歴史学者の大山誠一氏によると「太子の別名とされる、厩戸皇子という人物が存在したのは確かである。
しかしその人物が聖徳太子であったかどうか。太子に関する確実な史料は存在せず、太子に言及している『日本書紀』や法隆寺の史料は太子の死後一世紀も後のものである」という。大山氏の歴史を覆す提起は学界に論争を巻き起こした。
太子の業績とされる「憲法十七条」が、本当は太子自身によってつくられたものではないとも考えられている。
後年、奈良時代の『日本書紀』の編纂者によってつくられたのではないかというのである。聖徳太子の事績とされたものが、別人の手によるものであれば、太子の実在を示す証拠がひとつ消えることになる。
このように、太子の存在について、歴史家によって様々な見解がある。一四〇〇年も昔の人物であるため、それを明確に証明する史料などが見つからない限り存在の有無が確定できないだろう。
しかし、無責任な話だが歴史家でない人にとっては、謎が多くいろいろと推理をすることのほうが楽しいのかもしれない。
聖徳太子に関する様々な謎とは?
聖徳太子は実在したのか?
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『新説 学校では教えない日本史』 徳川家康は松平元康ではなく 修行僧・浄慶だった!? |
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