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聖徳太子はいない? 徳川家康は別人!? 学校では教えない“歴史の真実”

変転した家康の前半生

徳川家康通説では、徳川家康の出自は、父が岡崎城主・松平広忠、母は刈谷城主・水野忠政の娘・於大の方(伝通院)で、幼名を竹千代と称していた。 父・広忠は、駿河の今川義元の勢力下にあり、織田信秀と対立関係にあった。ところが、於大の方の兄・水野信元が織田氏と結び、於大の方は広忠と離別させられた。竹千代が三歳のときである。竹千代は十九歳まで母に会えなかったという。 竹千代は六歳で織田信秀の、八歳からは義元の人質となる。十五歳で元服すると、元信と名乗り、今川氏一族の娘である築山殿と結婚。その後、元康と改名、さらに家康と改名した。 歴史物語やテレビの時代物は、この通説に基づいて家康像が描かれている。

明治に発表された大胆な新説

一八六七(慶応三)年、十五代将軍・慶喜の大政奉還によって徳川幕府はその二六五年の歴史を終え、時代は明治となった。 徳川幕府が倒れてから三五年後の一九〇二(明治三五)年、静岡の官吏であった村岡素一郎氏が『史疑徳川家康事跡』という書物を発刊した。村岡氏はそのなかで、徳川幕府を開いた「徳川家康」は、修行僧出身の者が岡崎城主の松平元康とすり替わった人物だと主張している。 のちに家康となる修行僧の出自について、その父は下野の加持祈禱の流浪者、江田松本坊という修験者で、母は駿府のささら者の娘・於大であるというのだ。ささら者とは、町で竹細工の道具のささらなどを売り歩いていた身分の低い人々のことである。 さらに、村岡氏によれば、竹千代は元康の長男・信康の幼名で、家康の妻とされる築山殿は元康の妻であり、竹千代の母である。 このように「通説」では同一人物とされる竹千代と元康が父と子であることに始まり、のちに家康とかかわることになる人物の相関関係は、常識に囚われていると把握するだけでも大変な説なのである。 流浪者とささら者の子がどのように家康になったのだろう。江田松本坊と於大には国松という子がいた。この子は寺に預けられ、浄慶と名を改め、のちに願人坊主になった。願人坊主というのは、冬に裸で町を歩きまわって、家を訪ねて頭から水をかけてもらう修行をする僧のことである。 浄慶は世良田二郎三郎元信を名乗り松平元康に接近する。松平元康が家臣に殺害されると、元信は元康になりすまして城主となった。これがのちの家康であるというわけだ。 この説は学界では受け入れられず、今日まで「通説」が史実とされている。 しかし、家康の出自については、正史にも不自然な点が多いと指摘されている。 たとえば、新田義貞の一族であるとすることなどに疑問が投げかけられている。家康自身、自分の出自について触れたがらなかったという。 また、家康を神格化するために、幼時に関する記録は粉飾が多いとする説もある。家康の出自について疑問を呈した村岡氏は静岡の官吏であったが、『史疑徳川家康事跡』が発刊される前に罷免された。 この『史疑』をまとめるために公務の合間に駿河・遠州などの各地を調査してまわっていたようだ。静岡(駿河)という土地柄で旧幕府関係者がいて、彼らが村岡氏の動きを察知して圧力をかけたのだろうか。 いかがだっただろうか。歴史とは新たな文献、物証によって、書き替えられてゆくものなのである。では、これまで学んできた〝歴史の事実〟は、どう捉え直せばいいのだろうか? 誰もその時代を間近に見ることはできない。丹念に文献、物証を推察して〝歴史の事実〟を削ぎ落してゆくしかないのである。しかし、その結果、事実に肉薄したかもしれない多くの説が、推論の域を出ないとして淘汰されてもきたのである。 『新説 学校では教えない日本史』は〝歴史の事実〟と思われてきた事柄について、疑問や矛盾を指摘する新説、異説を紹介している。そのなかには、学校では教えない〝歴史〟も多く含まれている。読者は思いもよらない〝もうひとつの歴史〟に触れるだろう。 何が〝事実〟なのか? その答えは、読者一人ひとりの歴史を見つめる想像の力にお任せしたい。
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新説 学校では教えない日本史

徳川家康は松平元康ではなく 修行僧・浄慶だった!?

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