ガラガラに辛子明太子とひよこ饅頭を詰めてやってきた
もちろん福岡から兵庫まで内覧に来るというのは自由である。とはいえ、わざわざ遠くから内覧にやってきて入居しないとなると、いささか申し訳ない気もする。
「明日来てもらうのはありがたいねんけど、物件見て気に入らんかったら、いくら交通費半額やゆうてもね。高いお金払ってきて、なんにもならへんから悪いわ。ええん?」
こう私が念押しすると、電話越しの男性は明るく弾んだ声でこう話す。
「ええもなにも、ワシ、もう神戸に住むと決めてん。せやからなガラガラ(キャリーバッグ)にちょっとした着替え詰めて、そっち行くわ。大家さんに断られても、ほかの神戸の物件に入るから。心配無用や!」
家財道具はどうするのか、いきなり引っ越しといってもそう簡単なものではない。それを聞くと、何をか言わんやとばかりにこう返してきた。
「ええねん。どうせNPOからの頂きもんやし。パンツとシャツさえあったら、服やテレビや洗濯機とかタンスも全部、支援団体がなんとかしてくれるし。もう福岡は飽きたんや。神戸で新しい彼女、早よ見つけなあかんしな」
翌日、この男性はキャリーバッグと福岡土産の辛子明太子、ひよ子饅頭を持って新幹線で神戸までやってきた。内覧時、ほとんどその内部を見ることなく、物件に入るなりこう声を張り上げる。
「大家さん、ここにするわ! 2年くらい世話になる思うけれどよろしく!」
この男性が語るところによると、身体障害を抱えているため活発には働けない。しかし、それを不自由だとか、ましてや不幸だと思ったことはないという。
「役所駆け込んで、『ワシ、働けませんねん』とちゃんと理由をゆうたら、なんとかしてくれるよ。せやからワシ、保護受けながら、あちこち全国回ってるねん!」
こう言うなり、次の言葉を継いだ。
「今日からでええか? 布団、持ってこないかんね。どっかNPOに連絡取るわ」
今日やってきて今日、もう入居して住むという。正直、私にはその想定はなかった。今やWi-Fi完備だの、冷蔵庫や収納家具完備といった賃貸物件も増えている。だが、一般的に不動産賃貸業といえば、やはり家を貸すだけと考える大家は多いだろう。私もそのひとりだった。
もっとも亡くなった母は違った。この男性のように、「今日、布団が要る」となったときに備えて、「お客様用の布団」を常に用意していたのだ。
「NPOってゆうたかて……。どこか買いに行く?」
うちでは亡き母の時代から、入居者が引っ越してくる際には引っ越し祝いを兼ねて巻き寿司や簡単な総菜を渡すようにしている。これは、「一般的な大家とは違い、私はあなたを見守っています(目を光らせていますよ)」というメッセージでもある。
費用もそれなりにかかるといえばかかるが、慈善事業的な意味合いもあるのでずっと続けている。布団も今回は私のほうでサービスしてもいいかと思った。
「いや、大家さん、そんなんせんでええよ。NPOにゆうたらもらえるやろ」
男性が語るところによると、布団や照明器具、テレビ、収納家具、洋服などの着替え……、そうした一切合切は地元のNPOに連絡を取れば、すべて揃うのだという。
私もNPOと付き合いはあるが、そうした話は聞いたことがなかった。いや、聞こうとしなかったというか、興味がなかったのだ。だから知らなかった。
1971年、兵庫県生まれ。2010年頃に初めて物件を購入し大家デビュー。2018年、大家業を営んでいた実母の死去に伴い、複数の物件と入居者を相続し引き継ぐ。本業はライター/フリージャーナリスト。別名義で『週刊SPA!』(扶桑社)、『AERA』(朝日新聞出版)、『週刊ダイヤモンド』『ダイヤモンド・オンライン』(以上、ダイヤモンド社)、『現代ビジネス』(講談社)など週刊誌やウェブメディアに寄稿。金融経済、防衛、労働問題に詳しい。著書多数。現在、文筆業の傍らクセのある入居者相手に奮闘する日々を過ごしている。
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