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甲子園“慶応の応援”に賛否も、「フェアじゃない」という批判を筋違いに感じた理由

何のために応援するのか?

甲子園 こうした風潮から、応援が“見世物”に成り下がってしまったのではないでしょうか。敵味方を問わず称えることしかできないのであれば、もはや応援することと勝敗を決するスポーツの試合とは関係がなくなってしまいます。  であるならば、内向きになって自分たちの長所だけを発揮する出し物に徹するのが利口です。各校のブラバン自慢も、こうした流れから生まれたと言えるでしょう。  ひどい悪口を言い合ってケンカしろなんて言っているわけではないのです。しかしながら、フェアプレーを求めることが臭いものに蓋をする程度の意味になってはいないだろうか。高野連の通達にはそんな疑問が浮かんでしまいます。

本気で勝ちに行くことが、最大のリスペクトなのでは

 慶應高校の応援は、そこに一石を投じたのですね。彼らもルールに従って『◇◇倒せ』などとは歌いませんでした。代わりに、味方に有利な方向へ試合を動かし、相手校にプレッシャーをかけ続けた。勝利という第一の結果を得るために音楽と声を駆使した。高校野球が真剣に勝敗を争う戦いの場であることを、他者を傷つけることなしにやってみせたとも言えるのではないでしょうか。  本気で殴り合い、本気で勝ちに行くことこそが、相手への最大のリスペクトである。慶應高校の“えげつない”応援は、それを裏付けているように思えました。  サラサラヘアーと白い肌。そして森林監督の野心的な発言の裏で慶應高校が体現したものは、王道とも言うべき勝利至上主義だったのではないかと感じるのです。 文/石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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