エンタメ

切実でかけがえのない84人分の処世術。読書によって楽になったり救われたりする瞬間はある/『鬱の本』書評

―[書店員の書評]―
 世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。
鬱の本

『鬱の本』(点滅社)

 14件のヒット。これは「お元気ですか」という、業務メールの定型ともいえる先方からの挨拶に対して「めちゃくちゃ元気です!」と送った、ここ3年間の返信の件数である。それが多いのか少ないのかはさておき、そんなに元気なわけがない。 「めちゃくちゃ元気です!」と打ちながら、その直前、上司に「『とにかく上手く行ってるからいいや〜! じゃあそれでオッケーで〜す!』って感じじゃだめだよ。ちゃんと自分で調べないと」と注意を受けたのを思い出し、あまりにも図星な上に、ひいては私の人生そのものへの指摘にまで思えて鬱々としていたことだってある。毎日が絶好調でいられるわけがない。こんな出来事は些細で取るに足らないことだが、多かれ少なかれ誰しも気持ちが塞ぎ込む日だってあるはずだ。  今回紹介する本は、その名も『鬱の本』(点滅社)。とはいっても、序文にある注意書きの通り、うつや、うつのような症状の人に向けた治療法やマニュアル本というわけではない。この本の発行元である“ふたり出版社”の屋良朝哉さんと小室ユウヤさんによって、「毎日を憂鬱に生きている人に寄り添いたい」という気持ちからつくられたエッセイアンソロジーだ。病気の「うつ」に限らず、日常にある憂鬱、鬱屈した思いなどさまざまな「鬱」のかたちが、作家やミュージシャンなど総勢84人の書き手によって表現されている。1篇につき見開き1ページ、1000文字程度で構成されており、そのどれもが鬱にまつわる自身の大切な本に触れるかたちで書かれた1冊だ。  本当に精神的に参ったとき、なかなか本や小説は読めないものである。映画『花束みたいな恋をした』で私が最も好きなシーンは、学生時代にさまざまなカルチャーや純文学を愛した青年が、社会人になって日々忙殺される中で「パズドラしかやる気しないんだよ!」とキレるところなのだが、あれは本当に真理だと思う。そのことを、この『鬱の本』は言わずともわかってくれているのが嬉しい。  それでも、やはり読書によって少しだけ楽になったり、救われたりする瞬間はある。屋良朝哉さんは寺山修司の『人生処方詩集』に、山﨑裕史さんは鶴見済の『完全自殺マニュアル』に、姫乃たまさんは、なんとレシピ本である多森サクミの『フライパンでできる 米粉のパンとおやつ 小麦粉なしでも本当においしい』に。こんなふうに、それぞれの大切な本への思いとエピソードが詰まっている。  なかでも、私が特に心に残ったのは漫画家である瀧波ユカリさんの「Life Goes On」というエッセイだ。ある日突然、食事が出来なくなった著者は、メンタルクリニックで適応障害と診断される。その要因となったストレスと付き合うためのワークや運動をはじめて3か月ほどがたった頃、少しずつ調子が戻ってきた。でもまだ本調子には戻らないでいたある日、友人たちがはまっていたBTSの話題についていくためにメンバーの名前や顔を調べてみた。メンバー数も多く、それぞれの呼称もあって難易度が高い。プロフィールも読み込んでやっと名前と顔が一致したとき、ふと気付くと3時間たっていて、それだけの時間、心配ごとが頭に浮かばなかったのだという。1日3時間のBTS研究を始めて1週間、ごはんも食べられるし眠れるようになった。本調子に戻ったのだ。私はこの瀧波さんのエッセイをほとんど泣きそうになりながら読んだ。対象そのものに救われた、というよりも、その対象と対峙していた時間に救われるというエピソードのリアリティに感動したのだ。自分自身や、それに付随する不安を忘れるのは本当に難しい。けれど、こんなふうに心配ごとを忘れられる瞬間がほんの少しでもあったなら。  この本には、一回性の人生で培ってきた、切実でかけがえのない84人分の処世術が記されている。 『鬱の本』というタイトルには、きらきらとした箔押し。サイズもハードカバーより一回り小さく、表紙にはパンのような、クッキーのような、宇宙人のような不思議で可愛いイラストが施されている。まともな顔をしつつも、どこかはみ出し者のような体裁の『鬱の本』は、たくさんの本が並ぶ書棚でひときわ輝いて見える。 評者/市川真意 1991年、大阪府生まれ。ジュンク堂書店池袋本店文芸書担当。好きなジャンルは純文学・哲学・短歌・ノンフィクション。好きな作家は川上未映子さん。本とコスメと犬が大好き
おすすめ記事
ハッシュタグ