「あまりにも人間くさく、美しい」絶望のなかを強く繊細に生きた天才詩人の自伝的小説/『ベル・ジャー』書評
―[書店員の書評]―
世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。
あまりにも文庫にならないので、「文庫になると世界が滅ぶ」と云われていた世界文学の傑作、ガルシア=マルケス『百年の孤独』が、先日ついに文庫化した。私が働いている書店では、海外文学として異例の1000冊という破格の冊数を仕入れたのだが、発売10日で売り切った。飛ぶように売れていくさまを見ながら「みんな、置いていかないで!」と叫びたかった。660ページもある『百年の孤独』など夢のまた夢で、私は海外文学が本当に苦手なのである。馴染みのない名前の登場人物たちに、壮大なストーリー。日常と地続きで、個人のミクロな問題にフォーカスする日本文学を好む私は、どうしても外文への先入観を捨てられずにいた。
『百年の孤独』爆売れラッシュにも乗り遅れ、また外文に触れるきっかけを失いかけていた矢先、この『ベル・ジャー』の存在を知った。私の敬愛する作家がSNSで「この夏、絶対読んでほしい!」と激推ししているではないか。これは読むしかない。こうして導かれるように手に取った『ベル・ジャー』は、私にとって忘れられない1冊になった。
天才詩人と呼ばれた、シルヴィア・プラスの自伝的小説である本作。『ベル・ジャー』は、英米だけで430万部以上を売り上げた世界的ベストセラーだ。
主人公のエスターは、奨学金で大学に通う優秀な女子学生。決して裕福な家庭環境ではないが、人一倍努力し、狭き門であるニューヨークの出版社でのインターンを勝ち取った。順風満帆にも見えるが、将来への不安や周りの学生との差に劣等感を覚え、悩みは尽きない。何者かになりたいという心意気は人一倍あるのに、明確な未来予想図が描けないことで、空回りする日々を送っていた。
親しい男友達からの裏切りや、友人との価値観の違い。インターンではこれといった結果も残せなかった。焦りだけが募り、エスターの心は徐々に限界に達しかけていた。引き金を引いたのは、作家に直接師事するチャンスを摑むため、書き上げて投稿した小説が不合格だったことだ。良い作品が出来たと信じ、落ちることなど疑わなかっただけに、そのショックは計り知れないものだった。
思春期ゆえの苦悩と云われればそれまでだが、些細なことの積み重ねで精神のバランスを崩してしまう心境は想像に難くない。睡眠薬も増え、母親に連れられて精神科に通い始める。ふと新聞に目をやった先には自殺未遂者の記事。ぎりぎりで表面張力を保っていたコップの水はついに溢れ出し、エスターは自殺を図ることになる。未遂に終わったものの、精神病院から出られなくなったエスターは、数々の困難のなかで少しずつ光を手繰り寄せていく。「わたしは、わたしは、わたしは」。絶望の中で自分を見失わないよう、呪文のように唱えるエスターの姿はあまりにも人間くさく、美しい。
タイトルの「ベル・ジャー」とは、実験などで使われる、上から被せる形のガラス鍾の意味だ。エスターは、この世界のどこにいても、いつも同じガラス鍾の中に座って、自分のすえた臭いを嗅ぎながらくよくよと悩むのだろうと言う。キャリアを積みたいけれど、家庭も築いてみたい。替えの利かない何者かになり遂げて成功したい。でも、どうやって。
この小説が書かれた60年以上前も、若者、とりわけ若い女性の苦悩は今と変わらないどころか、より深刻だったことがよくわかる。
けれどエスターは、決して繊細なだけのキャラクターではない。この世界で闘ってやるんだというガッツと、早熟ゆえのシニカルな思考はとてもリアルで愛おしく、言いようのないシンパシーを覚えた。中盤、後半にかけて徐々に歯車が狂っていくさまが読み取れて、胸が締め付けられる。どこでこうなってしまったんだと何度もページを戻してしまう。世間と折り合いをつけられないまま、周りだけがどんどん進んで行くように思えるあの焦燥感は、きっと誰の身にも覚えがあるだろう。印象的なラストシーンを、私はハッピーエンドだと信じたい。
作者のプラスも主人公と同じく、若いときに自殺を図り、精神病院に入院した経験がある。退院後に結婚するも、夫の浮気が原因で離婚。この『ベル・ジャー』は、子供2人を抱えながら一気に書き上げられた作品だ。当時は評価に繫がらず、刊行1か月後にプラスは自ら自宅のオーブンに頭を入れて亡くなるのである。
日本文学にはない、海外文学ならではの楽しみ方があることも知った。それは翻訳者の違いである。本作は青柳祐美子訳で2004年にも刊行されている。より深く『ベル・ジャー』を知りたくて、こちらも読んでみたら驚いた。原著は同じでも、翻訳者の訳し方によって全く味わいが変わってくるのだ。
たとえば、青柳訳の326ページはこうだ。
【きっといつか、「忘れる」ということが、やさしい雪みたいに、すべてを覆って麻痺させてしまうだろう。
でも、あの痛みは全部、私の一部。あれは私の懐かしい心の風景。】
対して、今回の小澤身和子訳はこう。
【もしかすると忘れてしまえば、雪のように、なにも感じなくなって覆い隠されてしまうのかもしれない。
でも、あれはぜんぶわたしの一部だった。わたしの風景だった。】
訳し方だけでなく、漢字と平仮名表記が違うだけでもここまで印象が異なる。前者は叙情的なイメージが際立ち、後者は主人公の切実さがより伝わってくるようだ。
それぞれを読むごとに、新しい魅力を再発見した。これも海外文学にふれる醍醐味かもしれない。
海外文学というと、どこか遠い国の出来事で、自分とは交わらない登場人物ばかりが出てくるのだと思っていた。けれど『ベル・ジャー』のエスターは、驚くほど私の知っている人だった。それはかつての私のようだったし、私の友人のようにも思えたし、SNSで流れてくる知らない誰かの呟きにも読めた。共感とはまた違う、懐かしくて苦しかった記憶が共鳴し合うような、不思議な感覚。なすすべのない自意識を携えながら、それでもこの世界で生きていくこと。『ベル・ジャー』で描かれているエスターの生き様は、時代や年齢、性別をも超えて、読んだ者の中で強烈な光を放ち続ける。
評者/市川真意
1991年、大阪府生まれ。ジュンク堂書店池袋本店文芸書担当。好きなジャンルは純文学・哲学・短歌・ノンフィクション。好きな作家は川上未映子さん。本とコスメと犬が大好き
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