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松本人志が「自身の才能に喰われてしまった」理由。間違ったのは松本人志“だけ”ではない

露悪的な発言で炎上した小山田圭吾との「共通点」

 松本人志と同様に、露悪的な発言をすれば作風に箔をつけられると考え、失敗したのがミュージシャンの小山田圭吾です。東京五輪の開会式プロジェクトのメンバーを辞退するきっかけとなった、過去のインタビューでの障がい者イジメの“告白”。  しかし、のちに小山田はすべてが事実ではなく、ほとんどはインタビュアーや読者を喜ばせようとするサービス精神から出た発言だったと明かしています。 <「当時はそれまで同級生の小沢健二と組んでいた『フリッパーズ・ギター』を解散し、『コーネリアス』としてソロで活動を始めた頃でした。自分についていたイメージを変えたい気持ちがあった。そこで敢えてきわどいことや、露悪的なことを喋ってしまいました」>(『週刊文春』電子版 2021年9月15日)  アイドル人気からアーティスト路線へと転向するタイミングで、本格的な作風とオーラを一致させるために出た発言だったというわけです。威圧感を醸し出すには、際どく愚かであるほどインパクトは増す。その衝撃にファンは恍惚となり、作品に畏れを抱くようになる。その効果を狙って、“盛って”しまった発言だと告白しているのです。  こう考えると小山田圭吾の“懺悔”は納得がいきます。このインタビューをしたノンフィクション作家の中原一歩氏が言うように<サービス精神が旺盛な人>であるがゆえに、ファンに対してクリエイティブな露悪を披露したくなったのでしょう。  松本人志にも、この側面が全くなかったとは言い切れません。“輪姦容認”発言しかり、自著『愛』(1998年朝日新聞社刊)での神戸連続児童殺傷事件の犯人にいくらかのシンパシーを感じると明かした一文しかり。世間の良識にケンカを売るパブリックイメージに引きずられている感があるからです。お笑いの革新性を裏付けるために、普段の考え方も過激でなければならないとの思い込みですね。

自らの衝動を正当化するため笑いに変換していた?

 ファンや視聴者もそうした傾向を後押ししたように思います。美しい音楽の作者が人格者であることを期待するように、エキセントリックな芸風と非常識な人格をセットで求めてしまった。  アーティストや芸人も、世間に“つまらないヤツ”と思われたくないので、ますます言葉遣いが荒くなる。  この点で、松本のケースはより深刻です。自らの衝動を正当化するために笑いに変換していたフシがあるからです。お笑い芸人という公の部分と、性や悪に依存する私の部分が根深く癒着して生まれた見世物。  そうした危ういバランスの上に成り立っていたスリリングさは、遅かれ早かれ崩壊を免れなかったのでしょう。
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「音楽業界やファンが彼を破滅に追い込んだ」海外アーティストの事例
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音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4

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