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松本人志が「自身の才能に喰われてしまった」理由。間違ったのは松本人志“だけ”ではない

「音楽業界やファンが彼を破滅に追い込んだ」海外アーティストの事例

 そこで思い出されるのが、昨年11月に亡くなったアイルランドのパンク歌手、シェイン・マガウアンです。長年のアルコール、薬物依存から奇行を繰り返しながら、稀有な才能を讃えられてきました。  しかし、才能にかこつけてマガウアンの不摂生を見過ごすどころか、喝采さえ送ってきた音楽業界やファンが彼を破滅に追い込んだのではないか。イギリスのテレグラフ紙が、周囲の姿勢を糾弾する追悼文を掲載しました。 <けれども、あいも変わらず音楽業界は、自らを食いつぶそうとする才能を助けるどころか、どう扱うべきかもわからずにいた。そのかわり、恐怖であれ祝福であれ、そのような才能が存在する光景に惹かれた。>(『The Telegraph』 2023年12月1日 筆者訳)  同じテレグラフ紙で追悼文を寄稿した音楽評論家のニール・マコーミックも、<名声がマガウアンに力を与えてしまっていた。友人、ファン、バーテンが彼のアルコール依存を深刻にさせたのだ。>(『The Telegraph』 2023年11月30日 筆者訳)と書いています。  松本人志とシェイン・マガウアンを同列に扱うのは難しいところですが、少なくとも構図は同じです。才能やクオリティを免罪符に、修正すべき愚行が見過ごされてしまった。過度の飲酒で歯も抜け落ち、おぼつかない足取りで落ちぶれた夫婦の物語(「Fairytale Of New York」)を歌うマガウアンは、確かに唯一無二のオーラを放っています。  しかし、みすぼらしいマガウアンとみじめな曲の内容を重ね合わせ、そこに崇高さを見ようとする心理はなかったでしょうか?   松本のケースも同様に、コントやフリートークでの実験的かつ前衛的な発想と、「小学生でも乳出てたらイケるよ」というグレーな違法性を、才能というあいまいな物差しによってイコールで結びつけてしまった、という問題ですね。

松本人志も、自身の才能に喰われた“犠牲者”なのか

 本来、歯止めをかけるべき部分が、逆に表現行為のモチベーションになってしまった。そこに、ファンという存在はどのように関わってきたのか。いまいちど考えるべきところです。  吉本興業の元常務、木村政雄氏は、松本人志を正してやれる人間が誰もいなかったことが不幸だった、と話していました。  称賛を送ってきた外野の人間が、結果として松本を増長させてしまった可能性はないのでしょうか。  一線を越えた脱法的な笑いによってブランド力を育み、フォロワーを集めてきた松本人志。それゆえに、諫める言葉が届かなかった。  かつて松本は孤高の存在である自身について、こんな風に語っていました。 <裸の王様ねえ……。誰も何も言えない、そうですねえ、うーん、でも、裸の王様って悪いことですかね。「裸や」ってみんながもう、言えないんでしょ。じゃあ、すごいじゃないですか(笑)。> (『愛』 p.134) <でも、僕について誰も何も言えないっていうのは、ほんとじゃないですか。でもそんなもん、しょうがないですって。さっきから言うてるけど、誰もやったことないことをやろうとしてるんやから。それは誰も何も言えないでしょう。> (『愛』 p.135)  彼もまた、自身の才能に喰われた犠牲者なのかもしれません。 文/石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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