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29歳の女性僧侶が、受刑者に寄り添う“最年少教誨師”になった理由。「常識を常識と思えなかった」不登校時代を経て

“私の軸ってなんだろう?”僧侶を目指した理由

spa20240305_エッジな人々──片岡さんが僧侶になったのは、もともと“慈泉寺の子”として生まれたというのが大前提にあるかとは思います。 片岡:ええ。ただお寺の子特有の幼少期は特に過ごしていません。普通にクリスマスのお祝いもします。 ──片岡さんの宗派である浄土真宗は、修行がなく、結婚も髪色も比較的自由だそうですね。 片岡:悟りたければ出家する宗派もあります。ただ修行など特別なことをしないと幸せになれないのでは、宗教として一般の人たちが取り入れるのは難しいですよね。私は浄土真宗の“修行などの特別な行動に依らない”という教えが気に入っているんです。だから夜更かしもするし昼まで寝ていることもある。動物みたいな生活をしていますよ。 ──僧侶は早起きして雑巾がけしているとばかり思っていました。仏道を志したのは、芸術系の大学時代だったんですよね? 片岡:はい。大学自体はしっくりこなくて1年通って休学しましたが、学校外の活動などには参加していたんです。ある日、アパレル関係者の懇親会でファッションブランドを立ち上げたデザイナーさんや社長さんたちと出会いました。その人たちと関わるなかで、“私の軸ってなんだろう?”と考えたんです。一生を通じてやり続けられることは何か。こんなふうに考えたとき、これまで惹かれていたものは“歴史のある考え方”だということに気づきました。その根本にあるのはお寺であり、僧侶という職業かもしれない。これまで身近ではあったけど実態を知らない世界を知るため、大学を中退し、中央仏教学院へ進学しました。 ──その後、ご自身のルーツである京都の真宗興正派の本山に勤務されたんですよね。 片岡:そうですね。専門学校時代もそうだったのですが、僧侶になりたくて学んでいる、働いている人たちがほとんどいないのには驚きました。“家がお寺だから仕方なく”という方たちが多かったんです。自ら僧侶になりたいという私のような存在は、周囲から鬱陶しがられていましたね。憧れて手に入れた場所の現実を受け入れられず、もうこの道では生きていけないかもと、食い繫ぐだけのアルバイトをしたこともありました。ただ“とりあえず”の仕事が私はもうできなくなっていて。そのとき、浄土真宗における仏教を世界へ広めることを専門にする布教使として活動しようと思いました。

他者への違和感から小学生で不登校に

──片岡さんが僧侶として布教使・教誨師を兼任していることについて、ご家族の反応はいかがですか? 片岡:家族とは“理解し合えない”という感情がお互いにあるので、基本的には関わりがありません。お寺は父が跡を継いでいますが、私は個人として、自由に活動しています。給与形態も完全歩合制ですね。 ──小学5年生から不登校になり、「不登校なのは精神的な病気だから」という親の勧めで、高校からは養護学校へ行くことになったそうですね。そこから片岡さんと家族の間には何かしこりのようなものが残っているんですね。 片岡:私は学校という集団には、小学生のときから違和感を持っていました。毎日同じ服を着て、同じ時間に学校へ行き、先生が言うことは絶対。同級生に「先生の言うこと、なんで聞かなきゃいけないんだろう?」と聞けば「先生だからじゃない?」で終わってしまう。私は常識を常識と思えなかったんです。不登校になった私に対して、家族は完全に拒否反応を示していました。“常識”こそが常識で当たり前と考える人たちには、不登校などまったく理解できなかったんだと思います。 ──更生保護女性会の講演でも、時折涙を流しながら学校という集団に対する違和感などを話す姿が印象的でした。 片岡:頭の中では完全に整理がついていても、感情が揺さぶられると、反射的に涙が溢れてしまうんです。キラキラした学生生活は、私にはもう手に入らない。不登校時の自分を思い出してしまうのです。当時から“死にたい”という鬱症状がありました。ただ布教使や教誨師という役割を担う上では、身をもって語れる大切なことだと思っています。それが体験として持てているのは、ひとつの才能だとも自負していますね。
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希死念慮は「とても意味のある苦悩」
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