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“不登校の息子”に怒りを感じていた看護師の母が、退職し第二の人生を歩むまで。今では息子と一緒に「学校に潰される」と主張

カウンセリングを経て、看護師をやめることを決意

 そうした負の感情を抱え続けることに耐えられず、鳥丸さんはカウンセリングを受けた。 「カウンセリングを受けると、これまでの自分の価値観がわかってきました。大きな組織でトップダウンで決められたことと理想とする看護のあり方の間で揺れ動きながらも、結局は大きな組織へ属することへの満足感を得ていることなども、俯瞰することができました。自分のようにしがらみに縛られることのない不登校の長男に、身勝手さを感じていたんだと思います。しかし、それを咎めて家族が衝突してしまっては楽しく暮らせないですよね。私は看護師をやめ、不登校カウンセラーとして生きる道を選ぶことによって、長男に固執するのをやめることができました」(鳥丸さん)  当時の“衝突”と自らへの執着を解いた母の転換点について、康介さんは覚えていた。 「私は学校に行く意味がわからなくなって登校しないことを選択したのですが、両親から接触されるたびに『放っておいてほしい』と思っていました。あるとき、何かを言われたことに腹が立って2階から椅子などを投げたら、思っていたよりも被害が大きくなって自分でも驚きました。ただ、あるときから、これまで口うるさかった母が、『いくらゲームをしていても、もう制限をするようなことはしない』と言ってくれました。あのあたりから、母との関係も建設的になっていったなと感じますね」(康介さん)

「些細な決まりごと」に疑問を感じた

 そもそも康介さんが学校へ行かなくなったのは、学校の些細な決まりごとへの疑問が発端だった。 「いろんな矛盾が目につくようになってしまったんです。たとえば体育のときに“全体着座”というものがあり、どっちの手から座るとか事細かに決まっているんです。そういうことに意味を感じないんですよね。他にもツーブロック禁止、靴下や靴の色まで決められている――などの変な校則に最初から違和感を感じていました。  また、体育祭で陸上部に任されたスターターの仕事(ピストルの発射)があるのですが、その説明のとき、顧問の先生から『絶対に失敗は許されないから、間違えるな』と言われました。なぜ楽しいはずの体育祭でそのようなことを言われなければならないのかわからず、活躍を期待されていた体育祭も欠席することにしました」(康介さん)  子どもの不登校という外観だけでなく、その内面に耳を傾ける余裕が親の側に産まれると、変化がみえたと鳥丸さんはいう。 「一番大きな変化としては、康介が自発的に『やりたいことリスト』を書いていた点です。やるべきことではなく、自分から主体的に取り組む姿勢ができたことに成長を感じました」(鳥丸さん)
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「母親という役割」を全うすることに疲弊していた
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ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki

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