元カリスマギャルモデルがいま“令和パラパラブームの火付け役”に。当時は「2時間寝れたらラッキー」多忙な日々を振り返る
令和に入り、平成カルチャーのリバイバルブームの中で注目を集めている「パラパラ」。コロナ禍で再燃し“第5次パラパラブーム”としてオンラインを中心に拡大しました。
その火付け役ともいわれるのが、Rumiさん(38)です。かつてギャル雑誌『egg』で“ルミリンゴ”の愛称で親しまれ、カリスマ的な人気を博した伝説のモデル。
最近では、NHKの朝ドラ『おむすび』でギャルことば指導、パラパラ振り付け・指導を担当し、ギャル文化の象徴的存在として脚光を浴びています。
今回は、Rumiさんにeggデビューからギャルブームの変遷、“第5次パラパラブーム”を巻き起こした経緯について、お話を伺いました。
ーーRumiさんがギャルに目覚めたのは、いつ頃でしたか?
Rumiさん:小学3年生の頃には厚底やルーズソックスを履いてました!すでにギャル雑誌を読んでいた姉、そして和太鼓の習い事にいた先輩たちに影響されました。
小学6年生のときは、パラパラのビデオの新作が出るたびに借りて、振り付けを覚えましたね。当時は、あの世界のディズニーすらも、パラパラを踊れるイベント「Club Disney」を開催するほどのブームでした。
私は「Club Disney」のすべてのステージに厚底で通い、パラパラを覚えました(笑)
ーー16歳でeggデビューした経緯を教えてください。
Rumiさん:16歳の時、渋谷センター街でスカウトされたのがきっかけです。当時ギャルの間で流行していたピンク色のプレイボーイのジャージを着て、ギャルサークルの友だちとプリクラを撮ろうと歩いていたところでした。
編集者の方に「今eggの別冊の『manba』という雑誌の撮影をしていて、きみたちをこのまま企画にしたい」と声をかけられたんです。
eggは愛読書だったし、記念のつもりでノリで引き受けたんですけど、なぜか私にだけ名刺を渡してきたんですよね。
いざ発売された雑誌を見たら「ルミリンゴ率いるプレイボーイマンバ集団」っていうタイトルで載ってて。
ーーRumiさんメインの企画みたいなタイトルですね!(笑)
Rumiさん:「え、私率いてないんだけど!」ってなって(笑)。しかも、4ページの企画の予定が、撮れ高がよくて8ページに増えたそうです。
その後また編集部員さんから声がかかり、いきなりeggのニューフェイスのメンバーとして、デビュー号で表紙に起用されました。
しかも巻頭のニューフェイス企画では、10人ほどいた中で私がトップバッター。ひとりだけ片面1ページでドーンと紹介されていて、自分でも驚きました!
ーー初回から大抜擢ですね!
Rumiさん:あとから聞いた話ですが、私をスカウトしてくれた編集者さんは、渋谷の街にほぼ毎日立って新人発掘していることで有名で、その中から超人気モデルが生まれることも珍しくなかったそうです。当時のeggの人気はすさまじく、誌面に出ただけで地元で大騒ぎになりました。
下積みなしでレギュラーになったので、ポージングも何も分からないまま始まったモデル生活でした。
ーーeggモデルの先輩たちはどんな反応でしたか?
Rumiさん:eggの先輩はみんないい人ばかりで、モデル業界特有のいじめは一切なかったです。THE ギャルで、全員が超体育会系!挨拶と礼儀ができたので、すごく可愛がってもらえました。
下っ端の私が表紙になっても「おー、るみ、いいじゃん!おめでとう!」と素直に喜んでくれる、男前な方ばかりで。
ハタチの頃は、飲みに誘われたら翌朝5時集合でも「行きます!」と即答(笑)。4時まで飲み明かして、そのまま撮影に向かうこともあったくらいで、今じゃ考えられないですよね。でも、仲がよくて家族みたいな存在でした。

Rumiさん
小学生でギャルに目覚め、eggで異例のデビューを飾る
eggの先輩は「男前な方ばかり」

下段センターがRumiさん
韓国のじめっとしたアングラ情報を嗅ぎ回ることに生きがいを感じるライター。新卒入社した会社を4年で辞め、コロナ禍で唯一国境が開かれていた韓国へ留学し、韓国の魅力に気づく。珍スポットやオタク文化、韓国のリアルを探るのが趣味。ギャルやゴスロリなどのサブカルチャーにも関心があり、日本文化の逆輸入現象は見逃せないテーマのひとつ。X:@bleu_perfume
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