雑学

沖縄水産元監督・栽弘義の破天荒な生きざま

 高校野球の指導者の本を書店で最近よく見かける。高校野球の名将と言えば、古くは池田の蔦文也、箕島の尾藤公、常総学院の木内幸男、PL学園の中村順二、横浜の渡辺元智、智弁和歌山の高嶋仁、そしてSPA!にも登場していただいた島根・開星高校の野々村直通……と枚挙に暇がない。

※島根・開星高校 野々村直通氏のインタビューはこちら
⇒https://nikkan-spa.jp/275674


 卓越した理念と揺るぎない信念で何十年と指導し、プロ野球界にも何人も排出、いわば高校野球は野球を通じて人材育成のための場であり教育である。

 その全責任を担うのが監督である。と大上段に構えて言ってみたが、実際、平日は練習、土日は練習試合365日ほぼ休みがなく、完全に家庭を犠牲にしてやらなければならない。そのほとんどが教職員を兼ね、高校野球の監督はいわばボランティア。大前提に「野球が好き」でなければできないのが高校野球の監督である。

栽弘義

豪放磊落なイメージそのままに、その私生活もまた破天荒。人間味溢れる栽弘義という男の生き様に興味は尽きない

 一昔前の名将といえば豪放磊落な人物が多く、指導は徹底した殴る蹴る張り倒すの超スパルタ、練習試合前には対戦相手の監督と軽く一杯など当たり前だった。のんべえで知られる池田高校の蔦文也は、池田高校全盛期であった‘82年夏の甲子園初優勝時、宿舎近くのいきつけの寿司屋で毎晩酒を飲んでいたのは有名な話だ。ある日、エースの畠山準(元横浜)を寿司屋へ呼び出し、「よし、まあ一杯やれ!」と酒を勧めようとして、周りが慌てて抑えたという逸話も残っているほど。

 今ならモラルハザードとして厳しく処罰されるだろうが、あの時分は“豪快”という言葉ですべてが許された時代もである。その最たる人が元沖縄水産の栽弘義監督でなかろうか。‘07年に亡くなった今もその人気は絶大。そんな栽監督を描いたノンフィクション『沖縄を変えた男―高校野球に捧げた生涯』(ベースボールマガジン社)が先ごろ刊行され、話題を呼んでいる。同書の著者である松永多佳倫氏に話を聞いた。

――栽監督はかなり“やんちゃ”な方だったようですね。

松永「中京大学を卒業後、沖縄に戻って小禄、豊見城、沖縄水産へと赴任し、甲子園18回出場。‘90年、‘91年には夏の甲子園2年連続準優勝し、沖縄高校野球界の天皇として君臨していました。その栽監督の豪放ぶりというか破天荒っぷりはすごかったようですね。昼も夜も暴れん坊だったといいます」

――かなりモテたとも聞きます。

「とにかく物知りで口達者。女性からよくモテたようですね。毎晩のように酒場に行けば、女性客がグルーピーのように栽監督の周りに集まる。沖縄では“女好き”と評されていましたが、“女たらし”じゃなかったんですよ。クラブに飲みに行けば、お目当ての女の子をお持ち帰りできるほど、モテにモテたと聞きます。かなり派手に遊んでいたみたいですが、栽監督に惚れた女同士でのトラブルもなく、沖縄のドンファンといった方ですね」

――その豪放ぶりでどのように沖縄水産の球児たちを指導したんですか?

「沖縄の人というのは“なんくるないさ(問題ないさの意)”なんですよ。良くも悪くも牧歌的。でも、勝負に打ち勝つためには沖縄の子どもたちのそうした“なんくるないさ”気質を変えなくちゃならんと。そこで栽監督は、鶏の首を斧でぶった切らせたり、グラウンドにロープを張ってボクシングをやらせたり、緊張で実力が発揮できない選手には試合前に酒を飲ませてプレーさせるなど、発想がすでに教育者のものじゃないですね(笑)。でも、そうした“伝説”が沖縄水産の野球を作り上げたんでしょうね」

 破天荒な栽監督の生き様は、野球ファンでなくとも惚れ込んでしまうはずだ。 <文・構成/長谷川大祐(本誌)>

【松永 多佳倫】
まつなが たかりん ‘68年生。岐阜県出身。琉球大学在学中。出版社を経てノンフィクションライターとして沖縄の民族、言語等を研究中。『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ベースボールマガジン社)、『史上最速の甲子園−創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにメディアファクトリー)など、著書多数





おすすめ記事