香山リカが恋愛遍歴を告白。別れる原因は「プロレス」にあった
香山リカ氏の不定期連載『人生よりサブカルが大事――アラフィフだって萌え死にたい!』の第2回が到着!
前回(https://nikkan-spa.jp/346999)、プロレスリングノアの小橋選手退団でタクシーの中で泣きじゃくった香山氏。そもそもプロレスにハマっていくようになったきっかけとは?
マンガ、ゲーム、テクノポップなど数々のサブカルに稼ぎや時間を蕩尽してきた私だが、その中でももっとも長いあいだ、接触し続けてきたのがプロレスだ。「なぜプロレス?」とよくきかれるが、「そこにプロレスがあったから」としか言いようがない。ちなみに「プロレスが好きなんです」と言うとよく、「ああ、格闘技ですね」と言い直されるのだが、それは違う。私が好きなのはあくまでプロレスであって、K-1とかPRIDE系の格闘技には何の興味もない。
――そこにプロレスがあったから。
というより、私の人生はほとんどプロレスとともに始まった。何せもっとも古い記憶が、「空港でジャイアント馬場さんにぶつかったこと」なのだ。
1960年7月札幌生まれの私は、3歳になって間もない1963年の秋に両親とともにはじめて東京に出かけた。東京では動物園や銀座などおなじみの観光コースを訪れたらしいのだが、それらはいっさい記憶に残っていない。
ただ、旅程が終わって北海道に戻る羽田空港で親の制止を振りきり、闇雲に走り出して、バーンと巨木にぶつかった、という記憶は鮮明に残っている。
もちろん空港に巨木などあるはずもなく、それがジャイアント馬場さんだったのだ。後を追いかけてきて「すみません」とわびる両親に、馬場さんは笑顔で「いいんですよ」と言い、私を軽く抱き上げてこう言った。
――お嬢ちゃん、大丈夫?
……「お嬢ちゃん」と呼びかけた、というのは半分、私の空想が入っているのだが、抱き上げて声をかけてくれたのは事実だ。もちろん私はそのとき、その人が“世界の馬場”だということを知らなかったのだが、自宅に帰ってから父親はテレビでプロレス中継があるたび、「ほら、この選手があのとき空港で……」と私に語り聞かせた。当然のように私の3歳児ライフの後半は、「プロレス」や「ジャイアント馬場」で塗り尽くされるようになっていったのだ。
そして、もうひとつ3歳児のときの記憶として、鮮明に残っているものがある。
1963年12月15日のことであった。テレビのニュースを見ていた私の目に、プロレス中継で見慣れたある人の写真が飛び込んで来たのだ。力道山が死去した、というのだ。
私は驚き、父親に尋ねた。
「力道山、死んじゃったの?」
「そうだよ」
「どうして? あんなに強いのに! このあいだもテレビで試合してたよ! どうして死んだの!?」
なかなか納得しようとしない私に、父は困ったような顔をしてこう答えた。
「それはね、力道山は“よろしくない人たち”とつき合っていたからだよ」
力道山がウラ社会の人間たちともつき合いが深く、命を落とす直接の原因になったのも、赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で暴力団構成員にナイフで刺された腹部の傷の悪化だったことは、後に誰もが知るところとなった。しかし、父親としてはまだ3歳の娘に「暴力団」「ラテンクォーター」といった単語を教えるのはさすがにまずい、と思ったのだろう。
とはいえ、“よろしくない人たち”という説明はそれ以上に当時の私には理解不能だった。しかし、なぜかそれ以上、「その人たちって誰?何をしたの?」と追求してはいけない、という気がして、私は「ふーん、そうか」とその話題を打ち切ったのだ。
このように「私の3歳の思い出」は、「ジャイアント馬場さんに衝突」と「力道山死去」のふたつだけだ。いや、4歳も5歳も似たようなものだ。そのうち弟が生まれ、彼も当然、ほとんど生まれた瞬間から、私や父といっしょにプロレスを見せられて育った。さらに弟が少し育つと、父親は今はなき札幌の中島スポーツセンターなどに私と弟を実際のプロレス観戦に連れて行くようになったので、プロレスはますます深く私の生活と心に根づいていったのである。
あのときのあの試合とかあの選手のこのワザ、などと昔話を始めるとキリはないが、私はプロレスで何度も人生を棒に振りそうになった。というより、かなり振ってきたと思う。
ある本にも書いたことなのだが、東京の私大医学部にもぐり込んだ私は、1年のとき、東大理III(医学部コース)の学生にドライブに誘われたことがあった。「非モテ」というのはサブカルに並んで私の生涯のテーマなのだが、これまで生きてきて異性にドライブに誘われたのは、その大学1年のときとあと1回だけだ。
それはさておき、その貴重なドライブの車中、相手の男性はきわめて無難な質問をあれこれ私にしてきた。好きな食べものはとか、休みの日は何をしてるのかとか……。
その流れで「趣味ってなに?」ときかれたので、私は思わず「全日本プロレスが好きなんですよね」と言ったのだ。全日本プロレスとは、1972年、ジャイアント馬場さんがそれまで所属していた日本プロレスを退団して自ら設立した団体だ。
当時、全日本プロレス(通称・全日)は、アントニオ猪木選手が設立した新日本プロレス(通称・新日)と人気を二分していたのだが、私は通ぶって「ゼンニチ」などとは言わずにあえて「全日本プロレス」と答えたつもりだった。
――変わってるね。
これが、しつこいけれど東大理IIIの彼の答えだった。私はあせった。せっかくいい雰囲気でデートしているのに、変わり者だと思われてきらわれてはマズい。3歳のときから馬場信者だが、ここは宗旨替えをしても教祖さまはお怒りにならないだろう。
――そうですね、いまどき全日好きだなんて時代遅れの変わり者ですよねー、もちろん新日本も好きですよ。猪木とモハメド・アリの異種格闘技戦なんて、上京した父や弟といっしょに後楽園ホールに公開リハーサルまで見に行ったくらいです。あとね、最近、出てきた藤波ね、これすごいですよ、ジュニアといっても今は見ごたえ十分!
車内には、不思議な沈黙の時間が流れた。そして私が「しまった! 彼は国際プロレス派だったか!」と思い、ラッシャー木村の話をしようとしたその瞬間、東大ボーイはこう言ったのだ。
――いや、全日本とか新日本とかよく知らないよ。変わってるって言ったのは、プロレスが好きということに対してだったんだけど……
負けた。私は、ドライブデートという名の男と女の真剣勝負に負けたのだ。もちろん、その彼から私が再びデートに誘われることはなかった。
実はこのあとも私は何度も、プロレスが原因でそのときつき合っていた男性と別れる、という経験を重ねることになる。
30代のはじめにつき合っていた人とは、WWF(現WWE)のジ・アンダーテイカーという怪奇キャラのレスラーが好きになりすぎ、現実がまったく見えなくなって別れることになった。どういう風に険悪になってどういう話し合いで別れることになったのか、正直言ってまったく覚えていない。アンダーテイカーはアメリカのリングで負けて葬られたり、昇天したり、失踪したり、また復活したり、と死と生と天の世界を忙しく行ったり来たりしており、私の脳はそれを追いかけるので精いっぱいで、目の前の彼氏や知人を見ても「ん? あなた誰だっけ?」とまったくリアリティが持てなくなったのだ。
その間も私は精神科医の仕事は続けていたわけで、その頃、私が担当していた患者さんたちには悪いことをしたとは思うが……。
そして、アンダーテイカー熱が冷めかけた30代の半ば近く、今度はプロレス好きの男性とつき合うチャンスがやって来た。彼とは何度も実際に試合観戦にも出かけ、私は生まれてはじめて、弟以外の異性とプロレスを見るという幸福を経験したのだ。
しかし、その関係にも亀裂が生じることになる。その男性は基本的には新日本プロレス好きで、ほかにも女子プロレスもよく見ていた。一方、私はいちばん古い思い出が両親に関してではなく馬場さん、という馬場原理主義者だ。彼氏とちょっとした価値観や意見の食い違いが目につくたびに、私はどうしても「やっぱり猪木イズムで生きている人は違う。わかりあえない」と思ってしまう。
そして、ついにその彼とも別れの日がやって来た。
※次回(1月中旬頃に掲載予定)に続きます。
<文/香山リカ>
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