荻上チキ「『困ってるひと』『「フクシマ」論』は現実を叩きつける快作」【後編】
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開沼さんには先日、僕がパーソナリティを務めるTBSの「ニュース探求ラジオDig」に出演していただきました。そこでは、「地域共同体としての原子力ムラ」が、原発を受け入れてきた歴史をかいつまんで説明していただき、いま盛り上がっている「脱原発」が、一過性のもので終わらないためにも、そうした選択をしてきた地域にもたらす影響も併せて考えなくてはならない、という論点を提示していただきました。
そのとき、リスナーから寄せられた典型的な反応が、「なんで(オレタチ都市部の人間が)フクシマの奴らの事情を考えなくちゃいけないんだよ」というものでした。暗に、他の地域だって雇用の問題を抱えているんだとか、とにかく原発があるのが怖いんだよとか、いろいろな思いが込められているようでした。
原発をひとつの生活の糧にしている人たちがいて、他方でそうして作られた電気を享受してきた歴史があります。だが、原発事故以降、多くの人が原発に「こりごり」になっています。そこで、社会の転換を図ろうと熱心に議論をしているのが現在ですが、そこでしかし「中央/地方」といった構図を温存したままで結論の押し着せだけにしてしまうと、歴史的・経済的背景をすっ飛ばした議論になり、これまで同様の間違ったパターナリズムになってしまう。
それは結果、政治と言説の乖離をもたらしてきた。これからの社会づくりは、「東電批判」「政府批判」「御用批判」ほど、「わかりやすい敵叩き」では終わらないし、それで終わっては元も子もない。
大野さんにも、同じ番組にインタビューで出て頂きました。反応は大きく、「こんな問題があったとは」「こんな人がいたとは」といったお便りを、本当に多くもらいました。そうした中で印象的だったのが、「じゃあ、私たちに何してほしいいの?」というコメントでした。
共感もしたし、何かしてやりたい。だけど今まで無関心だった自分たちには、そもそも何が問題なのかさえわからない、というわけです。それを共有するためにメディアや言論があるわけですが、ただ、大野さんが『困ってる人』で暗に問題にしているのは、「何かしてあげる側」の人達に弱者が慈悲を乞う、というような図式です。
大野さんはしばしば「クジ」という言葉を使います。この社会に生きていれば、いつまでも誰もが「何かしてあげる側」「マジョリティの側」にいれるわけではなく、いつか「難病クジ」や「貧困クジ」を自分が、あるいは家族が引くかも知れない。
いくつかの「クジ」を引いた者には、ある程度の備えもできてきたが、まだまだ備えが不十分な「クジ」がたくさんある。大野さんが「難病」だけを問題にせず、「困ってる人」と捉えたのは、「どのクジをひいても生きていける社会」を作るためでした。
◆今の若手論客は「やり直し世代」
今の若手論客は「やり直し世代」だと思います。重要なのは、これまでメディアが様々な社会問題を作ってきた中で取りこぼされてきた問題や論点を発掘したり、「もう飽きた」「お腹いっぱい」となってしまっている論点について、ひとつひとつ再整理していくこと。論点化のやり直しをさせる、まさにそのタイミングにあります。
大野さんと開沼さん、同世代・同郷出身の二人は、単純な二項対立の言説に対して違和感を抱き、だからこそ「自分たち<こそ>当事者だ」という言説に回収させてしまうことなく、この複雑な現状を整理し、多くの人たちに関心を持ってもらうための仕事を始められました。今後もお二人は、これまで言葉にされなかった“複雑さ”を政治の言葉に変換していくという作業、社会問題化されてないものを社会化するため、人の心にゆさぶりをかけるというミッションを、それぞれ継続していくことでしょう。
その際の課題が、「関心領域の棲み分け」に陥らないことです。論点の複雑さと向きあう、どのクジをひいても安心できるようにする。そのためには、複数の論点を繋ぐ必要があります。今回「SPA!」でお二人の対談が早々に実現したのは非常に喜ばしいことで、この国を覆った悪夢を、忘却しないためにも、今から情念と論点を共有する必要があります。
「若手」などという冠は数年で消え、数十年後には「いかなる社会を実現しえたか」を問われます。それは「若者」も同様ですから、今「年長世代」に恨み節を述べている者も、そろそろ、みんなで積み残した課題をできる限り少なく出来るよう、社会を背負うための政治へととりかかなくてはなりません。二人の本は、その鏑矢となるでしょう。(談)
撮影/福本邦洋 構成/鈴木靖子(本誌)
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