香山リカ「私は40歳の誕生日を境に新生・全日といっしょに生まれ変わるんだから!」
香山リカ氏の不定期連載『人生よりサブカルが大事――アラフィフだって萌え死にたい!』の第3回が到着!
前回(https://nikkan-spa.jp/359850)、自らの恋愛遍歴に深くプロレスが関与していたことを告白した香山リカ氏。今回はその続きである。
妄想で好きな人がいるのに、現実の男とも平気でつき合える人のことがわからない。
あるとき友人がジャニーズにハマった。それもかなり重症で、休日は朝から晩まで同じDVDを繰り返し見続けたり、海外公演まで追っかけたりするほどだった。久しぶりに会った彼女は、すっかり“恋やつれ”しており、ため息とともにこうつぶやいた。
「こうやって生きていても、○○クンと結ばれる可能性はほとんどない。年だって私のほうが二十も上なわけだし(著者注・そういう問題かい!?)。もう生きる意味がわからなくなった……」
実は彼女は社会的にもかなり重要な仕事をしており、万が一、「好きなタレントとの行く末を悲観して自殺未遂」なんていうことになったら、週刊誌沙汰になりかねない。私は必死で「政府の審議会で同席するかもしれないじゃない」などと慰めながら、ふと気になった。彼女は子どもこそないものの、既婚者なのだ。
「○○クンがそれほど好きなのはわかったけど、だいたいあなた、ダンナがいるじゃない。家の中にほかの男がいるのはいいわけ?」
そうきいた私に、彼女はヌケヌケとこう答えたのだ。
「うーんとね、ダンナは家族。○○クンは恋人。できればダンナと○○クンと3人で暮らしたいな……」
私は、「そうか、浮き世でエラくなるには、これくらいヌケヌケしていないとダメなのね、と納得した。ちなみに、私はこういうことができない。妄想の中でも好きな人ができると、たとえそれがアニメやゲームの中の人であったとしても、その相手に操を立てたくなるというか、現実のオトコが見劣りしてしまって仕方なくなるというか、とにかく「彼と結ばれるまではひとりにして!」となってしまうのだ。
30代の前半は、アメリカのプロレス団体WWE(当時はWWF)の“地獄の墓掘り人”ジ・アンダーテイカーに夢中になり、あっさり当時のオトコと別れてしまった。どんな説明をして別れてもらったのかなどほとんど覚えていないのだが、おそらく「悪いっ、とにかくもうムリ、バイバイ!」と一方的に立ち去ったのだろう。
しかし、その後、地獄の使者と結ばれることもなく、そのうち私の熱もややおさまり(というか、アンダーテイカーがハーレーを乗り回すワイルドキャラ替えをしたので妄想の対象が消滅したのだ)、私はまた現実の男性とつき合うことになった。
その30代の彼氏は、私の人生の乏しい恋愛遍歴の中では頂点に立つような才能もセンスもある人で、私は“カノジョ”になれてちょっと有頂天だった。ところが、彼はユニークすぎるというか、10歳近く年上で「もう恋愛や結婚はうんざり」と思っていたからなのか、私にあまり関心を示してくれない。電話も週に1度くらいだし、会うのはもっと少ない(いま気づいたのだが、もしかすると私はカノジョじゃなかったのかも……イタタタ)。
私が好きになる男性だから、もちろん彼もサブカル好きだった。マンガにゲーム、もちろんプロレスも年季の入ったファンなのだが、ああ画龍点睛なるかな、彼が好きなのは新日本プロレスとUWFと女子プロレスだったのだ。
これはプロレスファンじゃなければ理解してもらえないかもしれないが、私のようなジャイアント馬場信者にとっては、一度でも猪木イズムの洗礼を受けた人はまさに異邦人。外からは「同じプロレス好きでしょ」とひとくくりにされるが、猪木信者と話すくらいならまだ「プロレスなんて見たことない」という津軽三味線のマニアと話したほうがまだ共通の話題を見つけられるかもしれない。
私としては、ごくたまにしか会えない彼が「83年の猪木・ホーガン戦を見た」などと話し出すと、「新日の話なんて聞きたくない」という思いが屈折して「誰と行ったの? 前の奥さんじゃないの? いまでもいっしょに新日に行きたいんでしょ!」などと嫉妬妄想にまで発展し、カリカリしてしまうのだった。
そして、1999年1月31日、巨星堕つ。ジャイアント馬場さんが亡くなったのだ。しばらくの間、私は虚脱状態に陥ったが、4月17日に日本武道館で開催されたお別れ会や5月2日に東京ドーム興行にて行われた「引退記念試合」には、その彼や弟といっしょに出かけた。やはり落ち込みや悲しみは私の場合、「オトコを切る」という動機にはなりにくいのだ。
翌2000年、予想外の展開がやって来た。
6月になって巨星亡き後の体制に不満を抱いていた三沢光晴選手らが、全日本プロレスからの離脱を表明。するとわれもわれもと選手、レフェリー、スタッフから運転手まで30名近くがその後に続き、なんと古巣に残ったのは選手では川田利明、渕正信、マウナケア・モスマン(その後、太陽ケアと改名)だけ、スタッフでは和田京平レフェリーなど数人のみ、となったのだ。
もし、ジャイアンツを杉内と阿部以外はみなやめた、ということになったら、そのチームは崩壊するだろう。
しかし、プロレス団体はそうではない。選手が3名、レフェリーとリングアナひとりずつ、フロントがふたりでも、興行は成り立つのだ。
選手らの9割が抜けた全日本プロレスは、その直後、7月1日から始まるシリーズを予定通り開催する、と強気の発表を行った。メインイベントは「川田対渕」のシングルマッチだ。ほかは他団体からの選手や外国人選手らで試合を組むのだという。しかも、7月1日の会場は、その後、離脱した三沢選手らが本拠地とすることになるディファ有明という新しいホールのこけら落としでもあった。
2000年7月1日。それは奇しくも私の40歳の誕生日だった。私は興奮し、めずらしく彼氏に自分から電話した。
「あのね、これこれなんだけど……1日、ディファに行くよね!?」
「うーん、ちょっと行けないな。その頃、仕事がつまってるからね」
「え、行けない? 崖っぷちの全日が新しい会場で試合をするってのに、行けないって言うんだね! そりゃ、そうだよね。新日じゃないから関心なんかないんだよね? ……わかった、もういいよ。別れることにしましょう!」
「え? な、なに……? 1日にプロレスに行けないことと、オレたちが別れることに何の関係……」
「ほら、何もわかってない! だからイヤなんだよ、もう二度と電話しないで! 私は40歳の誕生日を境に新生・全日といっしょに生まれ変わるんだから!」
こうして、私の恋は終わった。
あーあ、もったいないことをした。
でも、やっぱりああするしかなかったとも思うし、馬場さんや全日で人生を棒に振った自分の人生は、ある意味、筋が通っていることよ、と満足もしている。
とはいえ、その後、私は全日本プロレスと結婚することはなかった(全日は人ではないから……)。そして、それからあれこれあって今はプロレスリング・ノアを見ているのだが、昨年はマイバッハ谷口選手の登場に頭が沸騰し、さらに人生を棒に振りそうになった。そのあたりは、以前の日刊SPA!の記事なども参照にしてほしい(https://nikkan-spa.jp/295676)。今のところはギリギリのところで現実ライフに踏みとどまっている。
しかし、私の人生を破壊しようとするのは、プロレスだけではないから油断はできない。次回はちょっと別のワナについて話してみたい。 <文/香山リカ>
写真提供/(C)プロレスリング・ノア
この記者は、他にもこんな記事を書いています
ハッシュタグ