在日差別・暴力・闘病を生き抜いた、生島マリカの矜持「魂を汚さないようにしてきた」
不死身の花』は主要書店で軒並み1位を飾り、華々しいデビューを飾った作家の生島マリカ氏。13歳でストリート・チルドレンになったことを皮切りに、夜の社交界デビュー。モデル、秘書、No.1ホステスとして隆盛を極め、大物ヤクザの息子や球界の“番長”との交際、そして闘病、息子への想い――約30年に及ぶ過酷な半生を描いた同作は、まさにジェットコースターさながらのスリルを秘めている。先日配信したインタビューが大きな反響を呼んだなか、今回は波瀾万丈な人生をこれでもかと送ってきた生島マリカ氏に、逆境から好転する術を聞いてみた。
* * *
――「不死身の花」では、出自による差別から女友達の裏切り、親友の自殺、夫の不貞と暴力と……ドン底にありながら、まさに何度も返り咲く様が描かれています。なぜ、めげないのか。そのようなことが可能なのか。読んでいて非常に気になるところです。マリカさんは、例えば「これだけは守ってきた」というような、座右の銘はありますか?
「うーん……座右の銘ですか、それは難しいです。ひとことでは言えないので。ただ、自分がされて嫌だったこと、辛かったことは他人にやらないということかな。幼稚園で教わることですが(笑)。『自分が辛いから他人も不幸にしてやろう』という精神が不幸のループから抜けられない理由だということに気付く人は、少ないです。常に自分はそういう人間にならないことを意識して来ました。わたしは、自分が大切にしてきたものを汚したくなかったからです。
それが何かと聞かれたら、愛だと思います。男に限らず、自分、家族、友人、すべての人に対しての愛。違う言い方をすると、『許す』ということかも知れません。これね、格好つけているように聞こえるかも知れませんが、自分の状況があまり良くない時、辛い時、落ち込んでいる時に誰かのせいにしたり、逃げたりするのは簡単なんですよ。でも、厳しい現実に対峙して、自分と向き合うという思考力を持てる人、自分を貶めた相手すら愛せる(許せる)人が、本当は一番強いと思います。でもまあそれが一番難しくもあるんですがね。
しかし、不幸な状況にあっては誰かを恨みたくなるような場合もあります。でも、恨まない、憎まない、その思考から離れること。自分と、自分の大切なもののために。状況を変えたいなら思考も変えないと。相手の気持ちになってものを考えてみることも大事。もちろん、自分なら絶対こうしないのに、と理解できないようなこともあるでしょうが、そんなこと言っていても仕方がない。相手は自分じゃないんで。
したがって自分への理解も求めないこと。だから、許すんです。許すことでその状況(負の思考)から脱却できるから。そして、誰も恨まずひたすら目の前の試練に耐える。ただし、ここで言う「許す」というのは何でもかんでも受け入れて、誰かの言いなりになるということではありません。自分が『どうしてそう考えるんだろう』『なぜ分かってくれないんだろう』という執着に苦悩しなくて済むための許し。何事も、執着を引きずると物事は好転しない気がします。相手を許すというのはそこから離れ、己の怨念も浄化させること。それで初めて次に進めるんですよ。道は開ける。運を身につけるというか、流れを変えるきっかけにもなるんじゃないでしょうか。
――そのことに気がついたのはいつですか?
「父親の再婚ですかね。家を出される前くらいからかな。継母と結婚してから私が邪魔になって、家を追い出されはしましたけど、男としての父を認めて、許したというのが最初だった気がします。わたしは父が大好きでしたから、許せた。父に幸せになってほしかったから。それは大きかったな。
幼い時分に差別や虐待に傷ついて来たことは本にも色々と書いた通りですが、家を出された後にもすごく好きだった男の人から、心斎橋の真ん中で『お前なんか韓国人のくせに!』と大声で怒鳴られるとか、暴力も……そんなこともたくさんあった。でもね、わたしが今まで経験した辛い思い出をすべて抱えて根に持っていたなら、もうとっくの昔に死んでいたと思います。今も、わたしがわたしじゃなくなっていたと思うし。こんなに色々あった人生でしたが、本当に死にたいと思ったことは、幼稚園の時、そして多恵ちゃんという親友を自殺から救えなかった時と、レイプされた時の3回だけ。でも、仲良しだった異父兄が焼身自殺したり、友人にも自殺する人が多かったから、最後までできなかった。むかし、錯乱して睡眠薬を一瓶飲んでしまい、意識のなくなっていたところを救急隊員に助けてもらいましたが、その一度だけです。病院で目が覚めた時、生きてて良かったと心底思いました」
――極限でダークサイドに落ちる人、落ちない人の境目が、愛だと?
「ええ。色んな不幸に襲われるたびに、『何で自分ばかりこんな目にあうんだろう』っていつも思っていましたよ。それはね。でも、どんなに絶望的な状況でも、そこで仕返しをしようとか、憎まなかったから、私は本当の闇に落ちなかったんだと。『魂を汚さないようにしてきた』というのは、そういう意味です。
えらそうなことを言いますが、人間は、自分が幸せなら優しい人間でいるのは容易です。しかし、自分が厳しい状況の中で他人に優しくできる人は少ない。でもきっと、人ってそういう時にこそ魂が磨かれるんだと思うんですよ。生傷の耐えない人生ではありますが、『不死身の花』やブログを読んで、『元気になった』と言ってもらえることが何より嬉しいです」
――マリカさんは2012年に得度されていますが、仏門に入られて、そういう思考に辿り着いたわけではないんですね。
「それは関係ないです。自分が何かしたことで誰かが喜んでくれる、そこに生き甲斐を見つける人は少なくはありませんが、私の場合は、早くからそういう思いに至る特権的経験とでもいいましょうか、子供の頃に逃げ場のない試練に向き合っていたので、割と若い頃からそういう思考が芽吹いていたように思います。自分で自分を救う訓練のたまものです。
愛が見つからなければ自分が愛になればいい、と。ただ、本当に苦悩したのは2010年。出版を実現するため上京した私の後を追って、当時中学生だった息子が夜行バスに乗って上京してきたんです。その当時の私は職場に恵まれなく、7か月の間に4か所も職を転々として。クビになったり、職場の人間関係がうまくいかず、ストーカー被害にも。誰も助けてはくれないそんな中で、経済的にも精神的にも全く余裕がなく、食べ盛りの中2男子を食事どころか学校へもすぐには通わせられない状況で。狭い一間の部屋に、息子と2人暮らし。
ホント狭くてね、冷蔵庫とキッチンとの50cmほどの隙間に、身長180cmの息子が体をくの字にしてバスタオルに包まり、膝を抱えて眠っているんです。それを見るのは親として情けなかった。声を殺して何回も泣きました。わずか数百円欲しさに、財布やスリッパ、ベルトなどあらゆる身の回りのものをリサイクルショップに売るような生活が何ヶ月も続いていて。そのうえ役所からは毎月、先方の手違いで振り込まれていた何百万円もの返還金を要求されるし、不安で気が狂いそうだった。
しかも、近所に中学校があったんですが、時おり楽しそうに登下校する生徒らと遭遇するんです。すると、息子はわたしの後ろに回って隠れるんです。自分と同じ思いをさせてしまい、息子に申し訳なくて。苦しかった。いま思い出しても胃が痛みます。自分が辛いのは慣れているし、書いたものを発表したいというのは私の願望であり夢だから。しかしそこに息子を巻き込んでしまったことが辛かった。……たぶん、今まで生きて来て一番苦しくて辛かった時期と言ってもいいかも。息子にはわたししかいないので死にたくても死ねませんが、でも、あの時は死ぬより辛かったです。
――お寺を訪ねたその日に、いきなり得度の話をしたのですか!?
「そうですね。レイプされてから救いをもとめるようになっていました。初めて訪ねて行ったのは上京前です。誰かに話したくて、でも誰にも話せなくて。そんな中でたまたま、とあるお寺の情報を目にして、電車とバスを乗り継ぎ岐阜まで訪ねてみたんです。それまでお坊さんといえば、銀座や北新地で毎晩のように飲んでいるような坊さんしか知らなかったので、初めてまともな僧侶に出会って。『こんな坊さんがいるのか!』という驚きもありつつ、この人になら分かってもらえるかもしれない……という第六感というか、ピンと来るものを感じました。
その住職さんに『この世にいるのが辛い。けど息子がいるので実際には死ねません。だから得度したい(死にたい)んです』と申し込んだら、『ではまず、ご自分の話を嘘偽りなくして下さい』と言われたんです。で、これまでの人生を6時間くらいかけて全部……といってもかなりダイジェスト版(笑)でしたが、一気に話し終えたら、その場で『あなたは、すでにこの世での苦行が終わっている。得度してください。この世に生きてやらねばならないことがある。役目があるのです』と、認めて下さったんです。その言葉で、胸につかえていたものがスッと。
しかし、その場で認められたとはいえ、仏教大学を出ているわけではないので、得度式まで3年くらい必要としました。他のお坊さんにも会いに行きましたし、定められた修行もしました。思い起こすと、子供の頃から墓場やお寺にいるのが好きだったので、どこか必然だったような気もします」
――ところで、博打に関して『一晩で1600万円を溶かす』という豪快なエピソードも本の中には登場します。読んでいてゾッとしたのは、マリカさんが『首まで浸かる』という表現をされていていたこと。これにはリアリティを感じました。数々の依存から立ち直ったことに、励まされる読者もいるのではないでしょうか。
「博打は、人間性が出るので面白いんですよね。一時は完全な依存症で、自宅にまでカジノテーブルを置いて、毎日フェルトで爪の先が緑色に染まるまで練習していましたよ。“緋牡丹のお竜”じゃないですけど、そのうちトランプもサイコロさばきもプロ並みになっていました(笑)。
ただ、何でも依存症にまでなると生活や人間関係、体調、精神、色んなものが狂います。私の場合、アルコールにも長い間依存していて、32歳くらいでやっと脱出できましたけど、本当にあの頃の自分はバカでしたね……。息子には心配かけたし、迷惑もかけました。あの子も相当しんどかったはずです」
――その息子さんのために自伝を書き上げた、のですよね。お聞きしますが、息子さんの反応はいかがでしたか?
「脱稿して最初に息子に読ませました。書いてる途中もずっと応援してくれていましたから。ですから、これが本になって一番喜んでくれているのは息子だと思うんですが、実は、2015年4月から息子が着の身着のまま一銭も持たずに出て行ってしまい、もうすぐ9か月になるんです……。
私に似て器用なタイプじゃないから、生きているかどうかも分からない。けど、もしどこかでこの記事を見ていたら、私が書いた本を確認して欲しいんです。息子は、私の依存や暴力、良い時も悪い時もすべて目の当たりにして一緒に経験してきました。2度目の癌になった時に、もしこのまま死んでしまったら、息子にとってどんな母親で終わるんやろ……と。
めちゃくちゃな母親としてしか残らない。だから、生きているうちに一度くらいきちんとした大人としての姿勢を見せたかった。息子から自伝を出すことの許可をもらったと言いましたが、高校生になっていた息子に、『不死身の花』にはすべてを書こうと思うねんけど、と相談したら、あっさり『ええんちゃう』と言われました。わたしも13歳のとき、実母が亡くなってすぐ『再婚したいのだが』という父に『ええんちゃう』とあっさり再婚を許したんです。息子の口からその言葉が出たとき、ドキッとしました。あぁ、やっぱり親子なんだな……と。ちょっと運命的なものを感じましたわ。
よく『ドラマチックな人生で憧れます』とか言ってくれる人がいますが、『もう一回この人生送れますか?』と聞かれたら、答えはノー。絶対に嫌です。もういっぺんこれと同じ人生なんて送れない。二度と御免です。這々の体で生き延びてきたことを、自分自身が一番よく分かっていますから」
* * *
『不死身の花』は、生島マリカの生存証明であり、母から息子に贈る不器用なラブレターでもある。あまりに数奇な運命に翻弄されながらも、それに立ち向うタフな女の生き様。それでいて、彼女の周りには傑物が多く、信頼も強固だ。今現在、何か困難な状況に置かれている人は、きっと生きる勇気をもらえるはず。あまりの人気急上昇ぶりからAmazonでは売り切れが続き(1月13日現在)、入手困難となっている同著だが、「元気になりたい」と思う人にはオススメの一冊だ。
<取材・文/日刊SPA!編集部>
処女作『「自分が厳しい状況の中で他人に優しくできる人は少ない。その時、魂が磨かれる」
息子へのラブレターでもある『不死身の花』
『不死身の花』 夜の街を生き抜いた元ストリート・チルドレンの私 |
この記者は、他にもこんな記事を書いています
ハッシュタグ