60年代の東京を緻密で大胆、驚異的な記憶で描いた青春譜(坪内祐三『玉電松原物語』書評)
今年早々、この一月に亡くなった文芸評論家の坪内祐三さんの『玉電松原物語』が十月に発売。刊行早々に重版となり、静かな話題を呼んでいる。坪内氏は『週刊SPA!』で2002年から2018年までの16年間、福田和也氏との対談『文壇アウトローズの世相放談 これでいいのだ!』を連載し、福田氏、リリー・フランキー氏、重松清氏、柳美里氏と共に、文芸雑誌『en-taxi』(2003年~2015年)の編集同人も務めた。以下は、『これでいいのだ!』の連載を立ち上げ、『en-taxi』の創刊編集長でもあった壹岐真也氏による書評である。
昭和40、50年代、おもに1960年代の東京を緻密で大胆、驚異的な記憶で描いたこの青春譜は、きわめてかぎられた場所、時代についての貴重な記録だ。なんとなく、BGMにサニーデイサービスの四枚目でも流しておきたくなる。
「かぎられた場所」と述べたが、そこにはゆたかな、たしかな情緒がある。そこは、環状八号線ができる以前の東京世田谷だ。
この本はおもに、玉電・下高井戸線、現在の世田谷線沿線の赤堤というとてもかぎられた土地柄を生き、暮らした子供時代の話だ。
坪内さんは自身を「東京っ子」でなくあえて「世田谷っ子」と称する。
だけど、その世田谷は、いま思い浮かぶ瀟洒な高級住宅地とは大違いだ。育ったそこは田舎だった、と回顧する。
それは、1966年、前回の東京オリンピック前の風景だ。まだ高度成長は始まっていない。東京のどこにも高層ビルなどなく(日本最初の高層ビル=霞が関ビルディングができるのは1968年、昭和43年だ)、環状八号線も着工はしても完成まだではほど遠い状態だった。
たとえば世田谷区には原っぱがたくさんあった。そこでは鬼ごっこも自転車乗りも花火もできた(いまでは考えられない)。
それどころか、玉蜀黍畑、牧場まであったのだ、という。
これは、環八どころか環七のすぐ傍の話だ。
そんな土地柄で、坪内さんは育った。1958年生まれの坪内さんのこの育ちに、60年生まれ、3歳から荻窪で育ったジブンとの違いに驚く。60年生まれの私が育った杉並、中央線沿線には、もう花火のできる草っぱらなどなかった。鬼ごっこはしなかった。
そして、坪内さんは実に優雅で楽しそうな子供時代をおくる。
漫画雑誌をあれもこれもほしいだけ毎週買い、駄菓子屋で好みのお菓子を好きなだけ買い、気のすむまで花火をする。そのうえ、この子供は書店廻りまですでに覚えるのだ。
いや、それどころかこの子は小学生のくせに、すでに単身プロレス会場に通ったりもする。
後年、坪内さんが相撲見物を愛し、墨田川の向こうの国技館に通ったのも生来の、根っからの好みだったのだ、とわかる。荷風の浅草通いとも相通じるものがあったのか。そういえば、気づいていても誰もあんまり云わないけれど、坪内さんにはたしかに荷風好みと相通じるところがあった。荷風といえば江戸趣味だけれど、
「オレには吉行(淳之介)さん、(山口)瞳さん、色川武大の三人が入っているんだよ」
しかし、そうよく口にしたように、坪内さんには江戸好みのところはあまりなかった(ようにみえた)。坪内さんは、やはり昭和30年以降の「東京」だった。
それにしても、こんなに東京ぽい、東京が匂い立つ本は滅多にあるもんじゃない。
なんだか読み進めていくうちに、たしかにこれは遺作にふさわしい、「遺書」のような気持にもなった。
さんざん無数の作家、著者の絶筆文を読んできただろうこの人が、最後に自身で遺すのはこうした本がふさわしいかもしれない、と思いに耽った。
その意味でも、これは必読の一冊だ。
<文/壹岐真也>
「遺作」と本の帯には記されている。
これが、遺作なのか……。すこしさり気なさすぎるな、と感じる。
手にして、その丁寧な装丁、造りに熱くなる。胸がつまる。この仕上がりなら本の細部の造りに煩い坪内さんも満足なさるだろう。
いや、もしかすると、と思う。坪内さんはどこかで一旦文筆の仕事にケリをつけようとしていたかもしれないぞ、と。
この本を手にして、そんなことに、思いあたる。奇妙な気になる。理由はわからない。
たしかに、軽い口調で「いや、オレ、もうすぐ死ぬから」としょっちゅう言っていたのを酒場で聞いた気がする。
「なに云ってるんですか」と聞き流したものだが、いま考えると、異常に勘のするどい人だったから、なにか予感みたいなものがあったのかもしれない。
そんな坪内さんの、これが最後の本になった。
坪内さんは自身を「東京っ子」でなくあえて「世田谷っ子」と称する
こんなに東京が匂い立つ本は滅多にあるもんじゃない
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