板垣退助「知られざる定年後の人生」。私財を投げ出し、華族制、家父長制に異を唱えた“先見性”
日本は世界一の高齢化社会であり、今後は65歳以上の人口が爆発的に増えていく。しかもたいへんな長寿国なので、定年退職してからも二十年以上生きる人が大半になる。
定年後の長すぎる時間をどう有意義なものにできるかで人生の充実度は変わってくるはず。では、例えば有名な歴史人物は定年後にどんな第二の人生を送ったのだろうか。歴史研究家・河合敦氏の著書『幕末・明治 偉人たちの「定年後」』の中から、自由民権運動の英雄・板垣退助の“定年後”を見ていきたい(以下、本書より一部を抜粋・再構成)。
板垣退助は明治十四(一八八一)年、日本初の政党・自由党を創設して総裁となった。
自由党は急進的な共和制(フランス流)を主張し、党盟約第一章には「吾党は自由を拡充し、権利を保全し、幸福を増進し、社会の改良を図るべし」とあり、その目的を達成するため、憲法の制定と国会の早期開設を政府に要求し、立憲政体の確立を目指した。
その後、維新の功で爵位を授与(いったんは授爵を断るが、「明治天皇の聖慮だ」と諭され拝受)され、日清戦争後には内務大臣を二度務めるが、党利党略による醜い争い、政治家の金権体質、ひどく解散を恐れる代議士など、政治の世界にほとほと愛想をつかすようになった退助は、翌明治三十二(一八九九)年十一月に引退を表明した。
ただ、残りの二十年、退助は悠々自適な人生をおくったわけではない。政治よりもっと熱中できるものを見つけて邁進したのだった。その生きがいというのが、社会改良運動であった。
明治三十三(一九〇〇)年三月、退助は西郷従道(じゅうどう・隆盛の弟)とともに中央風俗改良会を立ち上げ、従道を会長に奉じて自分は副会長となった。
退助が目指す社会改良運動というのは、おおまかにいえば、家庭の改良、自治体の改良、公娼の廃止、小作や労働者問題の改善、といった、社会のさまざまな問題を解決することによって、日本全体をより良くしていこうという非常に幅の広い活動であった。
退助は言う。
「我が国は、裸にフロックコートを身につけているようなものだ」
外圧によって西欧化を余儀なくされ、外を飾ることしかできなかった。だからこれからは、国の内部(社会の諸問題)を整えていこうというのである。
六十代で政治の第一線から退く
社会改良家として積極的に行動
歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。
1965年生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も。近著に『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『逆転した日本史』、『逆転した江戸史』、『殿様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社)、『知ってる?偉人たちのこんな名言』シリーズ(ミネルヴァ書房)など多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017年に上梓
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『幕末・明治 偉人たちの「定年後」』 第一線を去った後の生き方にこそ、 男の本当の価値が見えてくる |
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