朝鮮半島の有事を救う【岡崎久彦大使の安全保障論】(4)――原点としての日英同盟と大正デモクラシー
明治の外務大臣・陸奥宗光につながる家系
岡崎久彦大使が外務省に入省したのは昭和27年4月である。その4月28日にはサンフランシスコ平和条約が発効し、GHQによる約7年に及ぶ軍事占領は解かれ日本は主権を回復したので、「いよいよ日本の外交が始まるというので、試験の倍率は……百倍くらいだったと記憶します」(『国際情勢判断・半世紀』38ページ)と述べている。 外交官試験は、東京大学法学部政治学科在学中に合格したため中退で入省。成績は英語の受験組で三番(全体では五番ほど)であり、入省後の留学先はイギリスのケンブリッジ大学となり、学部は経済学部を選んだ。 かつて「なぜ経済学部を選んだのか」と質問した折に、「外交史などはすべて頭に入っていたので、経済を勉強したかった」と答えていたのを思い出す。 岡崎大使の祖父は、立憲政友会(伊藤博文によって設立された戦前期の保守政党)の重鎮・岡崎邦輔(1854~1936)であり、明治期の外務大臣であり条約改正に尽力した陸奥宗光の従兄弟(いとこ)に当たるという家系である。 岡崎大使の父・端夫(ただお、1894~1974頃)は、当時、外貨を取り扱える唯一の銀行であった横浜正金銀行のエリート行員であり、海外支店勤務を経て独立し、第二次世界大戦の日中戦争前に、中国で不動産業を営みいずれ政治家になるという進路を描いていたという。敗戦で家が没落
しかし、財産を当時の安定株である朝鮮銀行株にしていたため敗戦と同時に財産を失い、また中国での投資などを理由に公職追放され、岡崎大使の父は戦後、失意の人となったという(前掲書、30~34ページ)。 こうして裕福であった岡崎家が没落していくのを、敗戦時15歳の少年であった岡崎久彦氏は目の当たりにしたのである。 それは、祖父や父から聞かされ、子供心にも感じていた「日英同盟と大正デモクラシー」という戦前の日本が最も輝いていた時代が、日英同盟の解消によって世界から孤立し、太平洋戦争においてアメリカによって叩きのめされた風景として心の奥底に刻まれたのである。 岡崎大使は、日英同盟と大正デモクラシーについて次のように綴っている。 日英同盟時代は日本の安全にとっては、最良の時代でした。英国と日本という世界最強の海洋国が同盟しているのですから、空軍がない時代、日本の安全は100%守られ、また世界七つの海の航路と資源は日英同盟の思うままでした。人間、安全と繁栄が保障されれば自由が欲しくなるのは当然であり、大正デモクラシーが生まれました。日英同盟は1902(明治35)年から22(大正11)年まで、大正デモクラシーは1912(大正元)年の大正政変から32(昭和7)年の犬養首相暗殺までそれぞれ20年ですが、日英同盟が双方とも不本意ながら、打ち切られてからも日英間の好誼(こうぎ)は満州事変までは続きます。したがって、この1902年から1932年までの30年間が日本の古き良き時代です。(岡崎久彦著『百年の遺産』扶桑社、2002年、139ページ)(続く) (文責=育鵬社編集部M)
『国際情勢判断・半世紀』 外交戦略論の論客にして安倍外交の指南役だった著者が、後世の日本人に遺す唯一の回顧録! |
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