生まれて初めてボクの体にメスが入った[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第22話)]

心臓絵

心臓を取り巻く冠動脈の図。☆印のところに狭窄があった。(『狭心症・心筋梗塞の安心読本』相澤忠範・著/主婦と生活社より)

執刀医を信頼するだけ

 全身麻酔を受けるのは先週に続き2度目である。  この日も瞬間的に無意識の世界に入ってしまった。人によってはこの状態を死の世界と表現するが、悩みも痛みも感じることなく、感情も意思もなければ記憶もない。でも生物体としては生きている。  ボクの執刀医は心臓外科医長の儀武路雄先生である。心臓手術ベテランの趣がある。言動だけでなく、体格的にもがっしりしていて、どんな長時間の手術であろうと、ナイフやピンセットを持ち続けることができそうで、全幅の信頼を寄せていた。  もちろん儀武先生には複数の心臓外科医が従い、チームを組んでいる。ボクの命はこのチームに託されたのである。  以下は術後、先生に取材してまとめたバイパス手術体験記である。

胸の観音開きとは

 手術は胸の皮膚を開くところから始まるが、最初のクライマックスは胸骨正中切開(きょうこつせいちゅうせっかい)である。いわゆる胸板(厚さ約1㎝)を真ん中から縦に20㎝ほど切り開く。  道具は電動のこぎりのようなものである。先生は術前「まず胸を観音開きにします」と言っていたが、これだったのだ。  ボクの病変は心臓に血を送る冠動脈に「詰まり」が生じたことだ。その冠動脈は大別すると、右冠動脈と左冠動脈回旋枝、左冠動脈前下行枝の3つである。 それぞれに狭窄があるのだから、その部分にバイパスを作らなければならない。  そのためにはバイパスの素材になる血管(グラフトという)が必要だ。ボクの場合は2本の内胸動脈と1本の大伏在静脈(右脚)が使われる予定であった。  内胸動脈は数多ある動脈のうち、最も動脈硬化の起こりにくい動脈で、胸板の裏側に左右2本張り付いている。太さも冠動脈と同じくらいで、これを別途使用しても体に対する影響はあまりないとのことだ。  儀武先生は切り開かれたボクの胸のウチを、なにやらまさぐっていたようだが、早々に左右の内胸動脈を見つけたようだ。  ボクは血栓などができないように長い間、血をサラサラにする薬を服んでいた。しかし、それはこうした手術のときに出血ノンストップにつながる恐れもある。  そういうことが起きないような措置も施しながら、先生は取り出した内胸動脈の切断面を止栓した。この切断面は狭窄していない先の方の冠動脈につなげるところなので、慎重の上にも慎重だ。  いよいよ心臓に手を付けるときが来た。心臓は握りこぶしくらいの大きさで、「筋肉のかたまり」といわれる。  冠動脈というのはかんむりのように心臓の4室(右心室・右心房・左心室・左心房)に貼りついていて、心臓に血液を送っている。その心臓は心嚢という袋の中に納まっている。だから心臓に手を付けるためには袋を切り裂かねばならない。  ボクは取材で心臓手術のカラー動画を見せてもらった。切り開かれた心嚢の中から心臓が出てきた。現実の心臓は脂肪のせいか黄色に見える。狭窄部はあらかじめ当りをつけてあるはずだが、動画を視る限り、血管は混線しているようにしか見えない。  冠動脈自体も大動脈から枝分かれしたものだし、その冠動脈からもたくさんの血管が枝分れしている。2次3次と枝分れが連続しており、それぞれの枝分れ血管には名称、番号、記号があるのだが、素人には全く分からない。

バイパスが出来ても新たな心配が

 先生は左内胸動脈を左回旋枝の枝分れ血管(12番)につないだ。つなぐということは細い血管同士を縫い合せる細かい作業である。いずれにしてもこれで左回旋枝中間部の狭窄部分にバイパスができた。    右脚から抜き取ってきた静脈は大動脈と左前下行枝の先の方にあるD2(第二対角枝)という部位につないだ。これで左前下行枝中間部にもバイパスができたはずだ。  ボクの右脚の静脈は見るからに太かった。皮膚から浮き出ているような見事なものだった。それでバイパス血流路が出来たのだから、東海道に第二東名ができたようなものだ。  右足の方は最大の静脈が無くなって血流がどうなるのか心配だったが、脚には静脈がたくさんあって、それらがカバーするから問題はないといわれた。  人間の体とは不思議なものだと思ったが、この太い静脈が、細い内胸動脈より耐久性が悪いと聞いて、また心配になった。いわゆる開存率の問題である。 動脈と静脈の違いを質すと、その使命から「動強静弱」とのことだった。 協力:東京慈恵会医科大学附属病院 【境政郎(さかい・まさお)】 1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。
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