世界文化遺産から読み解く世界史【第42回:フランス革命とは何だったのか】

凱旋門(縮小)

エトワール凱旋門 ナポレオンの命で建設が始められた

王権の停止とルイ16世の処刑

 今回はフランス革命とはいかなるものだったのかを考えてみたいと思います。  要因となったのは、フランス国家財政の悪化でした。フランスでは、ルイ16世が強大な権力を握る絶対王政が続いていました。しかし、イギリスとの植民地戦争やヴェルサイユ宮殿の造営、アメリカ独立戦争への参戦などによって、その財政が破綻寸前に陥ったのです。  そうした状況の中で、貴族や聖職者の特権に不満を持っていた第三身分の議員たちが、憲法制定を要求して、国民議会を結成しました。それに対して国王の側が弾圧を加える動きをとったために、パリ市民の不満が爆発し、バスティーユ牢獄が襲撃され、陥落したのです。  すると、農民の蜂起も各地に起こり、フランス全土に革命の動きが広がっていきました。そして、自由平等と国民主権をうたった人権宣言が国民議会で可決されたのです。  1791年に憲法が制定されて、国王一家が国外に逃亡しようとする未遂事件が起こり、1792年には王権が停止されて、翌年ルイ16世が処刑されました。

恐怖政治とナポレオンの登場

 この結果、どうなったのかというと、結局は恐怖政治になったのです。人権宣言で掲げられた「自由と平等」とは反対の弾圧が行われました。その後は、ジャコバン派による独裁政治が始まって、また混乱が起きました。その混乱を鎮めたのが軍人のナポレオンでした。  このナポレオンも、結局は皇帝の座に就くわけです。そのナポレオンは、1805年のアウスリッツの戦いでオーストリアとロシアの連合軍を破って、神聖ローマ帝国を解体させました。しかし、1812年のロシア遠征に失敗して失脚し、エルバ島に流されたのです。  結局、そうした混乱が革命の後もずっと続き、決して秩序が戻りませんでした。だから、ウィーン会議での戦後処理も進まなかったのです。  こうした状況の中で、ナポレオンは一時復帰しましたが、各国がナポレオンの復活を恐れて、ヨーロッパをフランス革命以前の体制(ウィーン体制)に戻そうとしたのです。  それは結局、人権宣言に掲げられたようなフランス革命の意義など、その当時の人々は、ほとんど理解しようとしていなかったということなのです。 (出典/田中英道著『世界文化遺産から読み解く世界史』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に新刊『日本国史――世界最古の国の新しい物語』のほか『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』『聖徳太子 本当は何がすごいのか』『日本文化のすごさがわかる日本の美仏50選』『葛飾北斎 本当は何がすごいのか』など多数。
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