朝鮮史講座…歴史に潜む反日の淵源「第3講:中国への自虐的卑屈はどのように形成されたのか?」
モンゴル式にした忠烈王
忠烈王は1271年、フビライの娘を娶ります。その翌年、フビライに前記のような日本侵略の上奏をして、帰国します。この時、忠烈王がモンゴル式の髪型と服装で帰国したため、周囲は驚きました。その姿を見て、嘆息し、泣く者もあったとされます(『高麗史』より)。 忠烈王は元王朝の都の大都(現在の北京)に滞在し、元の国力の強大さに圧倒されました。元に服従することこそが高麗の生き残る道と信じるようになったのです。 そして、毎年、元に莫大な貢ぎ物を送り、異常な追従ぶりを示しました。貢ぎ物を調達するため、なりふり構わず、民や臣下を搾取したため、クーデターが起こり、危うく殺されそうになることもありました。 1278年、忠烈王は胡服辮髪の令を発布し、朝鮮のモンゴル化を徹底します。忠烈王は子を全て、元の人質に出しています。忠烈王はフビライに対し、以下のように言っています。 特蒙恩、宥小邦人民、得保 (皇帝フビライの)特別なる恩を蒙(こうむ)り、(高麗のような)小さき邦(くに)の人民を宥(なだめ)つかまつり、(自らを)保ち得ん。 『高麗史』の「元宗十三年」の一部 まさに、これらの忠烈王の言動はその後の明王朝、清王朝においても永々と続く、朝鮮の中国隷属の原形をなすものであり、中国に対する極端な自虐的卑屈を決定づけるものでもありました。虎の威を借りる国
金泳三大統領の「ポルモンジャリ発言」にもあるように、日本を非難しても、彼らは決して、中国を非難しません。 中国は長い歴史の中で、朝鮮を「生かさず殺さず」痛めつけ、彼らを徹底的に隷属させるように仕向けました。簡単に言えば、恐怖によって小人を黙らせたのです。 「虎の威を借りる」狐は虎には決して逆らわず、虎の力を借りて、他を叩き、鬱憤晴らしをします。そして、そのような習性が長い年月の中で、遺伝子の中に刷り込まれてきました。 宇山卓栄(うやま たくえい) 著作家。著書に『朝鮮属国史~中国が支配した2000年~』(扶桑社新書)。ハッシュタグ
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