朝鮮史講座…歴史に潜む反日の淵源「第5講:外敵と手を結んだ売国王」

「三別抄」の乱を描いた絵

「三別抄」の乱を描いた絵

北朝鮮の拉致・核問題の暴虐、韓国の執拗な反日政治、これらの異常さというのはいったい、どこから来るものなのか。著作家の宇山卓栄氏はその答えを、朝鮮特有の「歴史的隷属」に見出す。朝鮮半島は一時期を除き、約2000年間、中国の属国だった。中国への隷属は朝鮮人の心を蝕み、我々、日本人には考えられないような「精神の卑屈」を招いた、と宇山氏は説く。

モンゴルとの戦い

 武臣政権が続き、政情が不安定な中、13世紀、モンゴルが高麗に侵攻します。武臣政権は「抗蒙」を掲げ、モンゴルと戦いましたが、開京(開城)をモンゴルに奪われ、王都を江華島に移します。  モンゴルを撃退することができない武官に対する批判が強まり、文官たちが巻き返しを図ります。武官に操られていた国王も文官グループに加担し連携します。  モンゴルの後ろ楯を得ていた国王の高宗や文官たちは1258年、武臣政権を率いていた崔(チェ)氏一派を暗殺し、政権を掌握しました。  そして、高宗はモンゴルにすぐに使いを送り、「これまで崔氏のせいで、恭順できなかった」と弁明し、モンゴルに降伏しました。  モンゴルは「征東行省」という高麗統治府を創設し、モンゴルの役人が直接、朝鮮全土を統轄しました。  しかし、高麗ではモンゴルに臣従した後も、反モンゴルの旧崔氏勢力の残党が多くおり、国王や文官勢力を脅かしていました。有名な「三別抄」なども残党勢力でした。  別抄とは特別部隊のことで、崔氏政権が警護のために組織した左右の二別抄と、モンゴル軍の捕虜となりながらも脱出してきた者を集めて編成した神義軍をあわせて「三別抄」と呼びます。  国王は旧崔氏勢力を抑え込むためにも、モンゴルにすがる以外にありませんでした。言わば、国王は内的を叩くために、外敵と手を結ぶという売国的行動をとるしかなかったのです。

忠烈王とモンゴル軍

 1268年、旧武臣政権勢力(反モンゴル派)が反乱を起こし、元宗を廃しました。モンゴルの人質となっていた忠烈王(この時は未だ王子)はフビライに、反乱を鎮圧するために兵を借りたいと懇願しました。  フビライはこれを認めました。忠烈王率いるモンゴル軍は颯爽と朝鮮へ向かい、反乱を鎮圧し、父の元宗を復位させました。  忠烈王は反乱に加担した旧武臣政権勢力を皆殺しにし、反対派を一掃したことで、国王政権の復興に成功したのです。そして、それを可能にしたのがモンゴルであったことから、忠烈王のモンゴルへの心従もまた、揺るぎないものとなりました。  忠烈王にとって、フビライ・ハンこそが自分を王にしてくれた大恩人であり、フビライの意を率先して、遂行することが自らの義務と感じ、終始、フビライに過剰にへりくだるのです。  そして、フビライの世界征服を助けるべく、高麗が犠牲になっても、日本侵略を行おうと進言して、フビライの歓心を買いました。  日本にとっては迷惑な話ですが、忠烈王は日本を、元と高麗の共通の敵と措定することで、彼らの連帯意識を高めようとしたのです。元との結び付きが強固になればなるほど、高麗王の地位は安泰なものとなります。  元寇はモンゴルが主導し、高麗は彼らに不本意ながら動員されたと捉えられることがありますが、実際には、高麗が積極的に加担していたのです。 宇山卓栄(うやま たくえい) 著作家。著書に『朝鮮属国史~中国が支配した2000年~』(扶桑社新書)。
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