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コロナ後にいち早く入国制限緩和のベトナムと付き合う際に知っておきたい近現代史
2020年06月28日
コロナ後にいち早く入国制限緩和のベトナムと付き合う際に知っておきたい近現代史
川島博之
ベトナムの歴史を知らず敗れたアメリカ
ベトナムは中国と戦い続けてきた。強大な敵との戦いの連続であり、決して楽な歴史ではなかったが、不屈の闘志で1000年間独立を守ってきた。 その歴史を深く理解しなかったのがアメリカである。ベトナム戦争に深入りして、結局負けた。米ジャーナリストのデイヴィッド・ハルバースタムによる『ベスト&ブライテスト』という本がある。ケネディ、ジョンソン両大統領の下で国防長官を務めたロバート・マクナマラなどアメリカの知的エリートたちが、ベトナム戦争を起こして敗れたという話だ。あれほどまでに頭のよいマクナマラがなぜ失敗したのか。それは彼が経営学には秀でた人物だったが、アジアの歴史に暗かったためだろう。 マクナマラは経営に数理的な手法を導入して、フォード自動車の再建などに辣腕を振るった。それは日本でも人気のMBA(経営学修士)に代表される知性である。常にコストとベネフィットを考えて行動する。マクナマラはベトナム戦争でも、ベトコンを一人殺すのにいくらかかるか計算していたという。 マクナマラは、戦争を始めるまでベトナムの歴史を全くと言ってよいほど知らなかった。MBAに代表されるお金儲けの技術だけでは東南アジアのビジネスを成功させることはできない。歴史に学ぶ謙虚さが必要になる。
ベトナムのホイアン旧市街にある日本橋(来遠橋)。1593年に当時ホイアンに居住していた日本人がかけた橋と言われている。
フランス植民地時代の東遊運動
ベトナムは19世紀にフランスの植民地になった。その経緯は複雑だが、阮朝(1802〜1945年)がフランス人宣教師の手を借りて王朝を樹立したことが、植民地にされてしまうきっかけになった。そんなことからベトナムでは今もグエン朝は人気がない。「グエン朝の王様は馬鹿ばかり」、人々からそんな陰口も聞かれる。 民衆はフランスに反感を持ち、ベトナムでは戦前から独立運動が盛んだった。しかし、いくら抵抗しても西欧文明の中心とも言える強大なフランスに勝つことはできない。そんな時代、アジアに希望の星が現れた。日本である。 ベトナムの歴史に日本が絡むのはここからである。ベトナム中部の街ホイアンには安土桃山時代から江戸時代初期にかけて日本人町があった。だが、それは昔話であり、現在のベトナムと日本の関係を考える際に関係はない。 アジア人は西洋人にかなわない。多くの人がそう思っていた時代に、日本はロシアと戦争して勝った。それはアジアの人々を大いに勇気づけた。ベトナム人はそんな日本に学びたいと考えた。東遊運動である。最初は日本に武器を援助してくれるように頼んだのだが、日本は武力闘争を助けることはしなかった。これは正しい判断だろう。 その後、科挙に合格した優秀な若者200名が日本に留学したのだが、フランスは警戒して、日本にベトナム人学生を留めないように要請した。日本はその求めに応じてベトナム人留学生を国外に追放している。 当時の日本は日露戦争に勝ったといっても、まだ東洋の小国である。欧州の大国フランスの要請を聞かなければならなかったことは理解できる。しかし、それでも他にいい方法があったように思う。 だが、当時の日本は脱亜入欧を国是としており、日本政府は遅れたベトナムを無視してフランスに迎合した。ベトナム人は日本人のアジアに対する視線を見逃さなかった。ベトナム人は日本人がアジア人を蔑視していること、また自分だけが西洋の一員になろうとしていることを見抜いた。ベトナム人と同じ立場にいれば、日本人だって深く傷ついただろう。現在それを口にするベトナム人はいないが、一部のインテリはよく知っており、時に日本に対して不信感を抱く原因になっている。
日本の北部仏印進駐
東遊運動から約30年後にベトナム人が日本人に対して再び不信感を抱く出来事が起きた。それが仏印進駐である。これが実質的に〝あの戦争〞の引き金になった。 1937年に日本と中国の間に本格的な戦争が始まった。戦争当事国になると石油や鉄など戦略物資の輸入が途絶える可能性があったので、日本政府は戦争とは呼ばずに「日華事変」や「支那事変」と称した。海外から物資を輸入しなければ経済を維持することができない。こんな名称を付けたことからも、日本が長期戦には耐えられなかったことが分かる。 そんな日本の弱みを見た蔣介石は、首都である南京が陥落しても降伏することなく抗戦を続けた。蔣介石は武漢を経て重慶に逃げた。そこは内陸部の山奥である、補給の面から日本軍は攻略することができなかった。米英はそんな蔣介石に武器や戦略物資を供与して抗戦を手助けした。 日中戦争は当初の見込みとは異なり泥沼化してしまった。日本は1941年の夏にアメリカと戦争を始めるかどうかで大いに悩むが、そんな折にアメリカと戦争を始めれば「南洋方面だけは三ヶ月位にて片付けるつもりであります」と奉答した杉山元参謀総長に対して、昭和天皇は「汝は支那事変勃発当時の陸相なり。其時陸相として、『事変は一ヶ月位にて片付く』と申せしてことを記憶す。然るに四ヶ年の長きにわたり未だ片付かんではないか」と詰問している。そこで杉山が「支那は奥地が開けて居り予定通り作戦し得ざりし」などと言い訳すると、天皇は「支那の奥地が広いといふなら、太平洋はなほ広いではないか。如何なる確信あつて三月と申すか」と叱っている。杉山参謀長はうなだれて、返答することができなかったという。有名なエピソードである。 蔣介石が逃げ込んだ重慶は大陸の奥深くにあり、日本軍の補給能力ではそこを攻め落とすことはできなかった。長引く戦争に国内では厭戦気分が広がり始めた。陸軍は戦争に勝つことができない理由を探さなければならなくなった。そんな陸軍は、米英が蔣介石に対して援助物資を送るから、蔣介石は降伏しないという理屈を言い始めた。 確かに援助物資は重慶政府を勇気付けていた。だが、援助物資の量はそれほど多くはない。日中戦争が終わらない真の理由は、日本に戦争終結のプランがなかったからである。日本は、なんとなく満州と同様に華北を日本の支配下に置こうと考えていた。しかし、中国政府にとって満州族の地であった満州とは異なり、北京を含む華北を日本に割譲することは受け入れることができない。蔣介石は日本が完全に中国大陸から撤兵するまで、重慶に逃げ込んで徹底的に戦い続けることにした。 中国は広いから日本の国力では全土を支配することは無理である。中国は戦いに勝つ必要はない。負けなければよい。時間が経てば、日本軍は疲れて撤兵する。蔣介石はそう考えた。 それは米英の利害と一致する。そのために、米英は重慶に逃げた蔣介石に援助物資を送り続けた。その道が「援蔣ルート」である。日本はその遮断に力を入れることになったが、それは〝あの戦争〞の導火線になってしまった。 援蔣ルートは二つあった。一つはミャンマーから雲南を通るルート。これは山道が延々と続く。もう一つはベトナムのハイフォン港から現在の広西チワン族自治区を経て重慶に送るルートである。 日本軍はまずベトナムからのルートを遮断しようと、中国南部の南寧に軍を入れた。しかし、南寧を占領したところで、広い大陸では一度中国に入った物資を遮断することはできない。そのために、日本はベトナム北部を占領して物資の輸送を遮断しようとした。ベトナムはフランスの植民地であるが、フランスは1940年6月にドイツに敗れた。チャンスが訪れた。日本はその隙に乗じて北部仏印に進出した。これは火事場泥棒と言われても仕方がない行為であろう。 日本はナチスドイツの傀儡政権であるフランスのヴィシー政権と交渉して北部ベトナムに進駐した。少々の戦闘は起こったものの、比較的平和的な進駐であった。この進駐は大東亜を解放するという高邁な理念を掲げて行ったものではない。大東亜戦争という名称は、米英との戦いが起きた後、1942年に付けられたものである。 そのために北部仏印進駐が行われた当時、ベトナム人はフランスに代わって日本人が新たな支配者になったとの思いを強くした。実際に、日本はヴィシー政府と共同でベトナムを統治することにした。そんなわけで1943年に大東亜会議が開かれた際にも、日本政府はベトナムの代表を呼んでいない。これらは日本人が忘れてしまった歴史である。だが、ベトナム人にとっては、日本人から「あの戦争」はアジア解放のための戦争であったと聞かされても、そうは思えない理由になっている。
南部仏印進駐とマレー沖海戦
あの戦争の頃もそして今になっても、日本周辺からは石油が出ない。現在、日本は多くの石油を中東から輸入しているが、1930年代には日本はアメリカから石油を買っていた。 日本はそんなアメリカと中国大陸での利権を巡って対立するようになってしまった。戦略物資である石油をアメリカに頼ることはできない。アジアで石油の出る場所を確保しておきたい。そう考えた日本は油田地帯であるオランダ領インドネシアのパレンバン、イギリス領ブルネイなどを占領してしまいたいと思った。 しかし、そこに兵を進めればオランダやイギリスと戦争になってしまう。そうなればアメリカも黙ってはいないだろう。石油を安定的に確保するには、東南アジアからアメリカとイギリスの軍隊を追い出す必要がある。軍部はそんなことを考えていた。 日本軍は1941年夏に南部仏印進駐を行った。その目的は、イギリスの基地があるシンガポールを攻略するためだった。サイゴン(現在のホーチミン市)近郊に飛行場をつくれば、マレー半島の制空権が手に入る。日本軍は実際にサイゴンの郊外に飛行場をつくった。 軍事的理由だけで、南部仏印にまで兵を進めてしまった。だが、そんな身勝手なことが許されるはずもない。南部仏印進駐はアメリカの逆鱗に触れた。アメリカは日本への石油の禁輸に踏み切った。南部仏印に進駐した時点では、日本はアメリカが石油を禁輸することはないと思い込んでいたが、その見通しは甘かった。日本は世界情勢を読み誤っていた。 当時、アメリカのルーズベルト大統領はドイツと戦いたかった。ドイツに勝利すれば世界の覇権を握ることができる。ヨーロッパの戦争に参加することはアメリカの国益になる。そう考えていたが、アメリカの人々はヨーロッパの戦争に巻き込まれることを嫌がっていた。 ルーズベルトは戦争の口実を探していた。そこに日本軍が南部仏印に進駐して、アメリカの世論を刺激した。アメリカ国民は石油の禁輸を支持した。ルーズベルトは石油を禁輸すれば、日本は石油欲しさに東南アジアに攻め込んでくると考えていた。そうなれば、日本との戦争になり、いずれは日本と三国同盟を結んでいるドイツとも戦える。石油の禁輸にはこんな思惑が隠されていた。 ところで、私見だがルーズベルトは日本が真珠湾を攻撃するとは思っていなかったと思う。日本軍がアメリカ領のフィリピンを攻撃するだけでも戦争になる。それがドイツとの戦いにつながると読んでいたのだろう。だが、フィリピンへの攻撃だけでアメリカの世論をまとめ上げることは大変だと思っていたはずだ。ルーズベルトにとって、日本が真珠湾を攻撃したことは全くの僥倖であった。日本があの戦争を反省するのなら、北部仏印進駐から真珠湾攻撃にかけての政治判断を反省すべきである。日本には政略も戦略もなかった。軍部が考えた小手先の戦術的な判断によって、あの戦争を始めてしまった。
開戦は真珠湾ではなくマレー半島
さて、日本は石油の禁輸からは坂を転げ落ちるようにあの戦争へと突き進んでしまった。あの戦争は1941年12月8日に日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃して始まった。そう思っている人が多いと思うが、正確には日本陸軍のマレー半島のコタバルへの上陸の方が早い。アメリカへの宣戦布告が攻撃開始より遅れたことが問題になっているが、日本軍はイギリスにはなんの宣戦布告もなく英領であるマレー半島に上陸している。 イギリスはシンガポールを要塞化して、「東洋のジブラルタル」と豪語していた。シンガポールはイギリスの東南アジア支配の拠点であった。シンガポールはマレー半島の先端にある島である。マレー半島とはジョホール水道で隔てられている。マレー半島は熱帯雨林に覆われており、イギリスはマレー側から攻撃されることはないと考えていた。海側から艦砲射撃などによって攻撃されることを想定していた。 シンガポールの海側の守りは固い。そのために日本軍はマレー側からジョホール水道を越えて攻め込むことを考え、マレー半島のコタバルに上陸した。その上陸の援護には戦時中に歌や映画で大いに有名になった陸軍の加藤隼戦闘隊が当たっている。隼はフーコック島から出撃しているが、フーコック島はベトナム最南端の領土であり、現在はきれいな海が広がるアジア有数の観光地になっている。 日本軍のマレー半島への上陸を阻止しようと、シンガポールからイギリスの最新鋭戦艦であるプリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが出動してきた。それを日本海軍の陸上攻撃機が攻撃した。マレー沖海戦である。 その前に、日本の空母航空部隊が真珠湾を攻撃してアメリカの戦艦を沈めているが、それは停泊した戦艦に対する奇襲攻撃であり、航行している戦艦を飛行機が沈めることができるかどうかは疑問視されていた。しかし、マレー沖海戦は飛行機が戦艦に勝ることを証明した。 マレー沖海戦に参加した日本海軍の飛行機はサイゴン付近の基地から出撃した。隼戦闘隊もそうであるが、事前に南部仏印を占領しておいたことはマレー作戦において大いに役に立った。
北部大飢饉
あの戦争の末期に、ベトナムで悲劇が起きた。戦争中、日本はベトナムをフランスと共同統治していたが、1945年になると米軍のベトナムへの上陸に備えるために、日本が単独でベトナムを統治することにした。戦闘が始まった際に共同統治のままだと各種の不都合が生じると考えたためである。 1945年、ベトナム北部のコメは不作だった。当時からベトナムの米作地帯はメコンデルタであった。北部の人は南部から海路で運ばれてくるコメも食べていた。しかし、日本が南シナ海の制海権を失ったことから、南部のコメを北部に運ぶことができなくなった。その結果、1945年の夏に北部は深刻な食糧不足に襲われた。そんな時期に日本軍は戦争に備えて農民から大量にコメを徴発したために、飢饉が発生した。 その実数についてはいまだに議論があるが、この1945年の飢饉で約100万人が死亡したとされる。この飢饉は日本軍が引き起こしたものとして、ベトナム人の記憶に残っている。それは祖父母が語る記憶だけではない。教科書にも書かれており、現在、それを知らないベトナム人はいない。 ただ、現在、ベトナム人は日本人に対して、このことに関連した恨みごとを言うことはない。それよりも日本のODAへの感謝の念の方が大きいように思う。また、中国と長い間戦い、中国が骨の髄から嫌いであるために、戦略上のパートナーとして日本に秋波を送っている。親日国と言ってよいが、その心の奥底にはこのような事実が隠されている。 日本人が東南アジアに進出したことが東南アジア諸国の独立につながったことは事実である。しかし、その経緯をよく知る人々が両手をあげて日本に感謝しているわけではない。この辺りはよく知っておく必要がある。「アジアから感謝される日本」的な発想でアジア人に接しても、本当の意味でアジア人の心を捉えることはできない。
川島博之(かわしまひろゆき)
ベトナム・ビングループ主席経済顧問、Martial Research & Management Co. Ltd., Chief Economic Advisor。1953年生まれ。1983年東京大学大学院工学系研究科博士課程単位取得退学。東京大学生産技術研究所助手、農林水産省農業環境技術研究所主任研究官、東京大学大学院農学生命科学研究科准教授を経て現職。工学博士。専門は開発経済学。著書にベストセラー『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』や『習近平のデジタル文化革命』(いずれも講談社+α新書)等多数。最新刊は
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フランス植民地時代の東遊運動
ベトナムは19世紀にフランスの植民地になった。その経緯は複雑だが、阮朝(1802〜1945年)がフランス人宣教師の手を借りて王朝を樹立したことが、植民地にされてしまうきっかけになった。そんなことからベトナムでは今もグエン朝は人気がない。「グエン朝の王様は馬鹿ばかり」、人々からそんな陰口も聞かれる。 民衆はフランスに反感を持ち、ベトナムでは戦前から独立運動が盛んだった。しかし、いくら抵抗しても西欧文明の中心とも言える強大なフランスに勝つことはできない。そんな時代、アジアに希望の星が現れた。日本である。 ベトナムの歴史に日本が絡むのはここからである。ベトナム中部の街ホイアンには安土桃山時代から江戸時代初期にかけて日本人町があった。だが、それは昔話であり、現在のベトナムと日本の関係を考える際に関係はない。 アジア人は西洋人にかなわない。多くの人がそう思っていた時代に、日本はロシアと戦争して勝った。それはアジアの人々を大いに勇気づけた。ベトナム人はそんな日本に学びたいと考えた。東遊運動である。最初は日本に武器を援助してくれるように頼んだのだが、日本は武力闘争を助けることはしなかった。これは正しい判断だろう。 その後、科挙に合格した優秀な若者200名が日本に留学したのだが、フランスは警戒して、日本にベトナム人学生を留めないように要請した。日本はその求めに応じてベトナム人留学生を国外に追放している。 当時の日本は日露戦争に勝ったといっても、まだ東洋の小国である。欧州の大国フランスの要請を聞かなければならなかったことは理解できる。しかし、それでも他にいい方法があったように思う。 だが、当時の日本は脱亜入欧を国是としており、日本政府は遅れたベトナムを無視してフランスに迎合した。ベトナム人は日本人のアジアに対する視線を見逃さなかった。ベトナム人は日本人がアジア人を蔑視していること、また自分だけが西洋の一員になろうとしていることを見抜いた。ベトナム人と同じ立場にいれば、日本人だって深く傷ついただろう。現在それを口にするベトナム人はいないが、一部のインテリはよく知っており、時に日本に対して不信感を抱く原因になっている。日本の北部仏印進駐
東遊運動から約30年後にベトナム人が日本人に対して再び不信感を抱く出来事が起きた。それが仏印進駐である。これが実質的に〝あの戦争〞の引き金になった。 1937年に日本と中国の間に本格的な戦争が始まった。戦争当事国になると石油や鉄など戦略物資の輸入が途絶える可能性があったので、日本政府は戦争とは呼ばずに「日華事変」や「支那事変」と称した。海外から物資を輸入しなければ経済を維持することができない。こんな名称を付けたことからも、日本が長期戦には耐えられなかったことが分かる。 そんな日本の弱みを見た蔣介石は、首都である南京が陥落しても降伏することなく抗戦を続けた。蔣介石は武漢を経て重慶に逃げた。そこは内陸部の山奥である、補給の面から日本軍は攻略することができなかった。米英はそんな蔣介石に武器や戦略物資を供与して抗戦を手助けした。 日中戦争は当初の見込みとは異なり泥沼化してしまった。日本は1941年の夏にアメリカと戦争を始めるかどうかで大いに悩むが、そんな折にアメリカと戦争を始めれば「南洋方面だけは三ヶ月位にて片付けるつもりであります」と奉答した杉山元参謀総長に対して、昭和天皇は「汝は支那事変勃発当時の陸相なり。其時陸相として、『事変は一ヶ月位にて片付く』と申せしてことを記憶す。然るに四ヶ年の長きにわたり未だ片付かんではないか」と詰問している。そこで杉山が「支那は奥地が開けて居り予定通り作戦し得ざりし」などと言い訳すると、天皇は「支那の奥地が広いといふなら、太平洋はなほ広いではないか。如何なる確信あつて三月と申すか」と叱っている。杉山参謀長はうなだれて、返答することができなかったという。有名なエピソードである。 蔣介石が逃げ込んだ重慶は大陸の奥深くにあり、日本軍の補給能力ではそこを攻め落とすことはできなかった。長引く戦争に国内では厭戦気分が広がり始めた。陸軍は戦争に勝つことができない理由を探さなければならなくなった。そんな陸軍は、米英が蔣介石に対して援助物資を送るから、蔣介石は降伏しないという理屈を言い始めた。 確かに援助物資は重慶政府を勇気付けていた。だが、援助物資の量はそれほど多くはない。日中戦争が終わらない真の理由は、日本に戦争終結のプランがなかったからである。日本は、なんとなく満州と同様に華北を日本の支配下に置こうと考えていた。しかし、中国政府にとって満州族の地であった満州とは異なり、北京を含む華北を日本に割譲することは受け入れることができない。蔣介石は日本が完全に中国大陸から撤兵するまで、重慶に逃げ込んで徹底的に戦い続けることにした。 中国は広いから日本の国力では全土を支配することは無理である。中国は戦いに勝つ必要はない。負けなければよい。時間が経てば、日本軍は疲れて撤兵する。蔣介石はそう考えた。 それは米英の利害と一致する。そのために、米英は重慶に逃げた蔣介石に援助物資を送り続けた。その道が「援蔣ルート」である。日本はその遮断に力を入れることになったが、それは〝あの戦争〞の導火線になってしまった。 援蔣ルートは二つあった。一つはミャンマーから雲南を通るルート。これは山道が延々と続く。もう一つはベトナムのハイフォン港から現在の広西チワン族自治区を経て重慶に送るルートである。 日本軍はまずベトナムからのルートを遮断しようと、中国南部の南寧に軍を入れた。しかし、南寧を占領したところで、広い大陸では一度中国に入った物資を遮断することはできない。そのために、日本はベトナム北部を占領して物資の輸送を遮断しようとした。ベトナムはフランスの植民地であるが、フランスは1940年6月にドイツに敗れた。チャンスが訪れた。日本はその隙に乗じて北部仏印に進出した。これは火事場泥棒と言われても仕方がない行為であろう。 日本はナチスドイツの傀儡政権であるフランスのヴィシー政権と交渉して北部ベトナムに進駐した。少々の戦闘は起こったものの、比較的平和的な進駐であった。この進駐は大東亜を解放するという高邁な理念を掲げて行ったものではない。大東亜戦争という名称は、米英との戦いが起きた後、1942年に付けられたものである。 そのために北部仏印進駐が行われた当時、ベトナム人はフランスに代わって日本人が新たな支配者になったとの思いを強くした。実際に、日本はヴィシー政府と共同でベトナムを統治することにした。そんなわけで1943年に大東亜会議が開かれた際にも、日本政府はベトナムの代表を呼んでいない。これらは日本人が忘れてしまった歴史である。だが、ベトナム人にとっては、日本人から「あの戦争」はアジア解放のための戦争であったと聞かされても、そうは思えない理由になっている。南部仏印進駐とマレー沖海戦
あの戦争の頃もそして今になっても、日本周辺からは石油が出ない。現在、日本は多くの石油を中東から輸入しているが、1930年代には日本はアメリカから石油を買っていた。 日本はそんなアメリカと中国大陸での利権を巡って対立するようになってしまった。戦略物資である石油をアメリカに頼ることはできない。アジアで石油の出る場所を確保しておきたい。そう考えた日本は油田地帯であるオランダ領インドネシアのパレンバン、イギリス領ブルネイなどを占領してしまいたいと思った。 しかし、そこに兵を進めればオランダやイギリスと戦争になってしまう。そうなればアメリカも黙ってはいないだろう。石油を安定的に確保するには、東南アジアからアメリカとイギリスの軍隊を追い出す必要がある。軍部はそんなことを考えていた。 日本軍は1941年夏に南部仏印進駐を行った。その目的は、イギリスの基地があるシンガポールを攻略するためだった。サイゴン(現在のホーチミン市)近郊に飛行場をつくれば、マレー半島の制空権が手に入る。日本軍は実際にサイゴンの郊外に飛行場をつくった。 軍事的理由だけで、南部仏印にまで兵を進めてしまった。だが、そんな身勝手なことが許されるはずもない。南部仏印進駐はアメリカの逆鱗に触れた。アメリカは日本への石油の禁輸に踏み切った。南部仏印に進駐した時点では、日本はアメリカが石油を禁輸することはないと思い込んでいたが、その見通しは甘かった。日本は世界情勢を読み誤っていた。 当時、アメリカのルーズベルト大統領はドイツと戦いたかった。ドイツに勝利すれば世界の覇権を握ることができる。ヨーロッパの戦争に参加することはアメリカの国益になる。そう考えていたが、アメリカの人々はヨーロッパの戦争に巻き込まれることを嫌がっていた。 ルーズベルトは戦争の口実を探していた。そこに日本軍が南部仏印に進駐して、アメリカの世論を刺激した。アメリカ国民は石油の禁輸を支持した。ルーズベルトは石油を禁輸すれば、日本は石油欲しさに東南アジアに攻め込んでくると考えていた。そうなれば、日本との戦争になり、いずれは日本と三国同盟を結んでいるドイツとも戦える。石油の禁輸にはこんな思惑が隠されていた。 ところで、私見だがルーズベルトは日本が真珠湾を攻撃するとは思っていなかったと思う。日本軍がアメリカ領のフィリピンを攻撃するだけでも戦争になる。それがドイツとの戦いにつながると読んでいたのだろう。だが、フィリピンへの攻撃だけでアメリカの世論をまとめ上げることは大変だと思っていたはずだ。ルーズベルトにとって、日本が真珠湾を攻撃したことは全くの僥倖であった。日本があの戦争を反省するのなら、北部仏印進駐から真珠湾攻撃にかけての政治判断を反省すべきである。日本には政略も戦略もなかった。軍部が考えた小手先の戦術的な判断によって、あの戦争を始めてしまった。開戦は真珠湾ではなくマレー半島
さて、日本は石油の禁輸からは坂を転げ落ちるようにあの戦争へと突き進んでしまった。あの戦争は1941年12月8日に日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃して始まった。そう思っている人が多いと思うが、正確には日本陸軍のマレー半島のコタバルへの上陸の方が早い。アメリカへの宣戦布告が攻撃開始より遅れたことが問題になっているが、日本軍はイギリスにはなんの宣戦布告もなく英領であるマレー半島に上陸している。 イギリスはシンガポールを要塞化して、「東洋のジブラルタル」と豪語していた。シンガポールはイギリスの東南アジア支配の拠点であった。シンガポールはマレー半島の先端にある島である。マレー半島とはジョホール水道で隔てられている。マレー半島は熱帯雨林に覆われており、イギリスはマレー側から攻撃されることはないと考えていた。海側から艦砲射撃などによって攻撃されることを想定していた。 シンガポールの海側の守りは固い。そのために日本軍はマレー側からジョホール水道を越えて攻め込むことを考え、マレー半島のコタバルに上陸した。その上陸の援護には戦時中に歌や映画で大いに有名になった陸軍の加藤隼戦闘隊が当たっている。隼はフーコック島から出撃しているが、フーコック島はベトナム最南端の領土であり、現在はきれいな海が広がるアジア有数の観光地になっている。 日本軍のマレー半島への上陸を阻止しようと、シンガポールからイギリスの最新鋭戦艦であるプリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが出動してきた。それを日本海軍の陸上攻撃機が攻撃した。マレー沖海戦である。 その前に、日本の空母航空部隊が真珠湾を攻撃してアメリカの戦艦を沈めているが、それは停泊した戦艦に対する奇襲攻撃であり、航行している戦艦を飛行機が沈めることができるかどうかは疑問視されていた。しかし、マレー沖海戦は飛行機が戦艦に勝ることを証明した。 マレー沖海戦に参加した日本海軍の飛行機はサイゴン付近の基地から出撃した。隼戦闘隊もそうであるが、事前に南部仏印を占領しておいたことはマレー作戦において大いに役に立った。北部大飢饉
あの戦争の末期に、ベトナムで悲劇が起きた。戦争中、日本はベトナムをフランスと共同統治していたが、1945年になると米軍のベトナムへの上陸に備えるために、日本が単独でベトナムを統治することにした。戦闘が始まった際に共同統治のままだと各種の不都合が生じると考えたためである。 1945年、ベトナム北部のコメは不作だった。当時からベトナムの米作地帯はメコンデルタであった。北部の人は南部から海路で運ばれてくるコメも食べていた。しかし、日本が南シナ海の制海権を失ったことから、南部のコメを北部に運ぶことができなくなった。その結果、1945年の夏に北部は深刻な食糧不足に襲われた。そんな時期に日本軍は戦争に備えて農民から大量にコメを徴発したために、飢饉が発生した。 その実数についてはいまだに議論があるが、この1945年の飢饉で約100万人が死亡したとされる。この飢饉は日本軍が引き起こしたものとして、ベトナム人の記憶に残っている。それは祖父母が語る記憶だけではない。教科書にも書かれており、現在、それを知らないベトナム人はいない。 ただ、現在、ベトナム人は日本人に対して、このことに関連した恨みごとを言うことはない。それよりも日本のODAへの感謝の念の方が大きいように思う。また、中国と長い間戦い、中国が骨の髄から嫌いであるために、戦略上のパートナーとして日本に秋波を送っている。親日国と言ってよいが、その心の奥底にはこのような事実が隠されている。 日本人が東南アジアに進出したことが東南アジア諸国の独立につながったことは事実である。しかし、その経緯をよく知る人々が両手をあげて日本に感謝しているわけではない。この辺りはよく知っておく必要がある。「アジアから感謝される日本」的な発想でアジア人に接しても、本当の意味でアジア人の心を捉えることはできない。 川島博之(かわしまひろゆき) ベトナム・ビングループ主席経済顧問、Martial Research & Management Co. Ltd., Chief Economic Advisor。1953年生まれ。1983年東京大学大学院工学系研究科博士課程単位取得退学。東京大学生産技術研究所助手、農林水産省農業環境技術研究所主任研究官、東京大学大学院農学生命科学研究科准教授を経て現職。工学博士。専門は開発経済学。著書にベストセラー『戸籍アパルトヘイト国家・中国の崩壊』や『習近平のデジタル文化革命』(いずれも講談社+α新書)等多数。最新刊は『日本人が誤解している東南アジア近現代史』(扶桑社新書)。「日本が侵略した」 「日本が解放した」 どちらも間違い!! 日本人だからこそ知っておくべき東南アジアの歴史の真実!