日本のHIV/AIDS啓蒙の土台を作ったDJパトリック、日本で頑張った20年間
かつてSPA!で足かけ10年にわたり連載をしていた、DJパトリックこと、パトリック・ボンマリートが亡くなった。
彼はHIVポジティブであることを早くからカミングアウトし、HIVの啓蒙に熱心に取り組んでいた人だった。
アメリカ人のパトリックは1965年、フロリダ生まれ。9歳のときに両親が離婚し、母親とスペインに移住したが、17歳のとき横田基地に勤める父親を頼って来日。10代後半を東京ですごす。1986年ニューヨークに移り、1989年、HIVに感染していることが判明。日本がバブルに浮かれ、ディスコ(!)が大ブームだった1993年にDJとして再来日し、日本のメディアにHIVポジティブであることをカミングアウト。以来、サウンドプロデューサーとして東京を生活の拠点としていた。
SPA!でパトリックの連載が始まったのは1994年8月。
日本では、1986年、長野県松本市へ出稼ぎに来ていたフィリピン人女性がHIVに感染していたことが報道され、HIVやAIDSへの誤った知識からエイズパニックが起きた。翌1987年には、神戸で日本人女性初の感染者が確認され、さらにHIV・エイズへの差別と偏見が高まることとなった。当時はまだ、HIVは空気感染する、というような認識だったのだ。
そんなパニックも冷めやらぬ中、奇抜なファッションとへこたれないスーパーポジティブキャラクターで、偏見をはねのけ、マイノリティによりそい、HIVの正しい知識を広めていったのがパトリックだ。性同一性障害や障害者夫婦、難病患者たちに会いに行き、中学校や高校では子どもたちに「相手を思いやるセックスって、どういうことだと思う?」と問いかける。
もちろん自身に関係のあるHIVやAIDSについての情報も発信し、アメリカやタイ、オーストラリアなど、HIV感染者を減らすことに成功した国にも取材に出かけていった。
連載は2003年9月2日号までの丸9年以上、445回、その後も不定期で「HIV/AIDSの今」としてリポートを続けた。
「性感染症? 何それ? ゴム買うおカネなーい! 子どもキライだから不妊症になっても平気!」とあっけらかんと語る女子高生たちにガックリしてみたり(2002年8月13号)、アメリカ取材では合法売春宿やAV組合の厳しい検査と管理に驚いたり(2003年12月9日号)。2004年には、タイ取材で初めてAIDS末期患者の姿を目にし、号泣したこともある(5月18号)。
そして、長いHIVとのつきあいの間には、心の揺れもあった。
「ボクさあ、こんなに生きる予定じゃなかったんだよね」とパトリックが言ったのは、HIVに感染して10年目を迎えたころ。
「お薬をやめればいずれAIDSを発症する。でも、薬を飲んでいれば一生大丈夫かどうかは、わからない。2000年までは頑張ろう!っていろいろ目標を立てたけど、大部分はかなってしまった」(1998年7月1日号)
パトリックがHIVに感染した80年代後半、HIVの薬は1種類しかなく、同時期に感染した人は、1、2年でAIDSで亡くなっていた。その後、新薬が次々と開発され、 「AIDSは死の病」ではなくなり、パトリックも「次はHIV感染20年を目指すんだもんね~♪」と目標を変更。その目標もクリアし、今年は感染から24年目を迎えたところだった。
車をぶつけられておシャカにされても、つとめていたお店がつぶれて借金ができても、彼氏に振られても、いつだって不死鳥のようにパワーチャージして甘えてくる、憎めないヤツだったが、最近は体調も経済状態もあまりよくなかったようだ。
パトリックとは20年以上のつきあいになる主治医の岩室紳也先生(厚木市立病院泌尿器科)は、今回の訃報に接し、以下のように語る。
「パトリックは、日本のHIV対策、予防、HIVとともに生きることを教えてくれた最初の人だと思います。その功績は計り知れないし、今の私があるのもパトリックのおかげです。彼に勇気づけられた人もたくさんいるでしょう。寂しいです」
パトリックがいつも講演などで話していたのは、「自分らしく生きること。自分を大事にすること。自分で考えて自分で決めること」。
20年近く日本でHIV・AIDSの啓蒙を行ってきたのも「自分で選んだ国だから」だ。
「2000年までは頑張りたいな」と常々言っていたパト。プラス13年分、よく頑張ったと思うよ。ご冥福を心よりお祈りします。
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