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“国歌を拒否”した選手をオバマ大統領が擁護。もし安倍総理なら…?

形だけ「君が代」を歌わせる…その程度の“愛国心”でいいのか?

 ともあれ、こうした“事件”が起きてもアメリカという国は要所を押さえる。極めて冷静に大人の対応をしていると感心させられるのだ。というのも、日本では「君が代」を立って歌えとのお達しが、さも当然のように横行しているからである。 安倍総理 記憶に新しいところでは、昨年4月の参院予算委員会で安倍総理が「国立大学の入学式や卒業式で、国旗掲揚と国歌斉唱を行うことが望ましい」との認識を示したばかりだし、大阪府では公立校で教職員が「君が代」を歌っているかどうか口元をチェックするなど、コントのような出来事も起きた。  もちろん、“国と郷土を愛する態度を養う”といった目標自体が悪いのではない。だが、“口を大きく開けて「君が代」を歌え”とか、“旗に向かってはとりあえず立っておけ”といった具合に、外的な拘束によって見てくれだけ整えたところで、一体何の意味があるというのだろうか?   逆に言えば、その程度のことで“国と郷土を愛する態度”があると認めてもらえるのだとすれば、何とも薄っぺらい愛国心ではないか。そこに考えが及ばないのが、実に間の抜けた話なのである。

強制された忠誠心など長続きしない

 先日のリオ五輪の体操団体で金メダルを取った内村航平選手も、「声が裏返るぐらい歌ってやろうと思った」と語った。今のところ微笑ましい美談として受け取られているが、このコメントに至った背景に、壮行会での森喜朗氏からの“お達し”があることは想像に難くない。  社会からの厳しいチェックに合格する程度の“愛国心”として、「声が裏返るぐらい」の国歌斉唱なのである。  そう考えると、この数年で盛り上がりを見せる保守反動ブームの原動力は、“恐れ”なのかもしれない。アメリカの批評家エドマンド・ウィルソンは、 “Americanism”という語が最後には、<アメリカが気に入らなきゃ生まれた国へ帰れという脅し>(『A PIECE OF MY MIND』)にまで落ちぶれたと記している。  コリン・キャパニックは、確かに騒動を引き起こした。だが、彼は反乱分子でもなければ、適当な愛国者でもない。一人の真摯な成人男性として、誤りがあると感じれば、それを表明することを厭わないというだけだ。そして彼の所属する組織や、国の最高権力者もそうした存在を認めている。  強制された忠誠心や尊厳が長続きしないことが、身に染みているからだろう。それは口元をチェックしただけでは、分からないことなのだ。 <TEXT/石黒隆之>
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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