これらの文言がモンテーニュからの借用であることは知られている。
だが、シェイクスピアはこうした物の見方の背景に「悪に対する未熟な感性」や「おめでたいほどのナイーヴさ」があることを見抜き、言葉の姿かたちはそのまま残しながら、裏側から理想を眺めていたのである。
(筆者註:「」内は、いずれも『Shakespeare’s Montaigne The Florio Translation Of The Essays』内のスティーヴン・グリーンブラットによる序文からの引用)
志高いミュージシャンの発する「クソ安倍」は、この純粋な理想を純粋なまま信仰するナンセンスから生まれているのではないだろうか。つまり、自分だけは権力という悪を行使することなく、平等、公正の原則に立ち続けるという根拠なき確信である。
しかし、言葉を発し、声明を打ち立てること自体がすでに権力の行使であると理解しない限りにおいて、彼らは敗れ続けるだろう。
その意味で、デ・ニーロの“転向”には学ぶべき点が多々あると思うのだ。
<文/石黒隆之>