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トランプを罵倒したデ・ニーロが一転「敬意を払う」。「クソ安倍」と言い続ける人は無邪気だ

安心して「クソ安倍」と言い続けられる日本

 さて、これを日本に置き換えたとき、有名人たちの権力者への態度が一様に“無邪気で一義的”であることがとても気がかりだ。  たとえば、「ASIAN KUNG-FU GENERATION」というバンドの後藤正文が「クソ安倍」だとか「くるくるぱー安倍」だと公衆の面前で言い放ったあとでも、温かい食事と睡眠をとり、翌日は何事もなかったように生活できる。  その秩序体系を維持する最高責任者は一体どこの誰だと考えているのだろうか?同じことを中国やロシアでしてたとして、無事でいられるとでも思っているのだろうか?
プーチン

公衆の面前で「クソ・プーチン」なんて言ったら許さないよ…

 こうした無自覚な反抗で思い出すのが、『あらし』(シェイクスピア)の一節である。ナポリ王国の顧問官・ゴンザーローが思い描くユートピアを次のように語る場面だ。 <この国におきましては、万事この世とあべこべに事を運びとう存じます、先ず、取引と名の附くものは一切これを許しませぬ、役人は肩書無し、民に読み書きを教えず、貧富の差は因より、人が人を使うなど―――とんでもない、すべて御法度、契約とか相続とか、領地、田畑、葡萄畑の所有とか―――これ、またとんでもない話、金属、穀物、酒、油の類に至るまで、一切使用厳禁、働くなどとは以ての外、男と生れたからには遊んで暮す、勿論、女にしても同じ事、ただし未通で穢れを知らず、いや、そもそもこの国には君主なるものが存在しない―――> (『夏の夜の夢・あらし』シェイクスピア 訳・福田恆存、新潮文庫)

「悪に対する未熟さ、おめでたいほどのナイーブさ」

 これらの文言がモンテーニュからの借用であることは知られている。  だが、シェイクスピアはこうした物の見方の背景に「悪に対する未熟な感性」や「おめでたいほどのナイーヴさ」があることを見抜き、言葉の姿かたちはそのまま残しながら、裏側から理想を眺めていたのである。 (筆者註:「」内は、いずれも『Shakespeare’s Montaigne The Florio Translation Of The Essays』内のスティーヴン・グリーンブラットによる序文からの引用)  志高いミュージシャンの発する「クソ安倍」は、この純粋な理想を純粋なまま信仰するナンセンスから生まれているのではないだろうか。つまり、自分だけは権力という悪を行使することなく、平等、公正の原則に立ち続けるという根拠なき確信である。  しかし、言葉を発し、声明を打ち立てること自体がすでに権力の行使であると理解しない限りにおいて、彼らは敗れ続けるだろう。  その意味で、デ・ニーロの“転向”には学ぶべき点が多々あると思うのだ。 <文/石黒隆之>
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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