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金正男の“友人”が初告白「キムちゃんは金正恩にも同情していた」

金正男鉄板の宴会芸「ジョンナムスタイル」

 一時は故・金正日総書記の後継者としても名前が挙がっていた金正男氏。だが、シンガポールでの彼は単なる「底抜けにフレンドリーな男」だったという。それを如実に示すのが、彼ならではの“宴会芸”。 「カラオケに行くと、『ジョンナムスタイル』を歌い出す。韓国のPSYの大ヒット曲『江南スタイル』の替え歌です(笑)。乗馬のポーズで踊りながら、オッパ、ピョンヤンスタ~イルと歌っては大爆笑をとっていた。お決まりのギャグもありました。酔っぱらった彼は誰かれ構わず、『ヘイ、ブラザー』と絡むのですが、それを周りの人たちが『お前のブラザーは北にいるだろ!』とツッコむのです」  A氏はマカオを訪れ、息子のハンソル氏とも酒席を共にしたことがあった。 ⇒【写真】はコチラ https://nikkan-spa.jp/?attachment_id=1321813
金正男

マカオでA氏が金正男氏、息子のハンソル氏と酒席を共にしたときに撮影した一枚。普段の金正男氏は痛飲して、自ら脱ぎだすことも少なくなかったそうだが、この日は息子の前とあってハメを外さず。金正男氏には最初の夫人との間にも2人の子供がいるとされているが、ことのほかハンソル氏をかわいがっていたという

「ハンソル君がいると、彼は少しだけ大人になる。少し偉ぶったりもする。ハンソル君に『たまには女でもひっかけてこい』って、無理やりナンパさせたこともありました(笑)。ご存じのように、彼にはほかにも2人の子供がいますが、人一倍ハンソル君をかわいがっていました。彼が亡くなってしばらくして、ハンソル君がネット上に動画をアップしましたが、たくましく育った彼を見たときは涙が止まらなくなりました……」  大勢と酒席を共にするときはご機嫌だった金正男氏だが、時に深刻な表情を浮かべることもあったという。 「’13年に叔父の張成沢(当時の北朝鮮No.2)が殺されたときは沈んでいました。かといって政治的な話を突っ込んですることはできなかった。彼も詳しく話そうとはしないんです。話したら、危害が及ぶ可能性があると考えていたのかもしれない。だから、人前では常に明るく振る舞っていました。『暗殺を恐れた金正男は正恩に命乞いの手紙を送っていた』という報道もありましたが、私にはそれは信じられない。決して、弱音を吐くようなことはなかったので」  A氏が知る限り、暗殺に怯える様子はなかったという。シンガポールでは常に一人で行動し、飲んだあとはタクシー乗り場で一人、行列に並んでいた。一方、金正恩朝鮮労働党委員長に同情的な言葉もたびたび漏らしていたという。 「たまに北朝鮮の話になると、決まって『俺は恵まれている』って話すんです。『父(金正日)がスイスに留学させてくれたから、世界を知ることができた』と。その一方で、正恩については『かわいそうだ』と。『北朝鮮しか知らずに育ってしまったら、“ああいうふうに”振る舞わざるをえない。かといって、北からは出られない。俺も同じ立場になっていたかもしれないと考えると、正恩のことは悪く言えない』と真面目な顔で話していました」  今回、A氏が見せてくれた写真の金正男氏はいずれも陽気な笑顔を浮かべていた。スイス、マレーシアなどを訪れている際にも、A氏には頻繁にメッセンジャーアプリでとぼけた自撮り写真を送ってきたという。
金正男

シンガポールのほかにも、マカオ、マレーシア、スイスと飛び回っていたとされる金正男氏。何のメッセージもなくドヤ顔の自撮り写真を送ってくることもあったという

 ただし、金正男氏には別の顔もあった。同じくシンガポールで親交を深めた別の人物は「スイス、マカオでのマネーロンダリングが彼の仕事の1つだった」「キム・チョルなどの名前で3つのパスポートを持っていた」などと話すのだ。大の日本贔屓としても知られ、日本でも妙に人気のあった金正男氏。彼は一体いくつの顔を持っていたのか……? 【“人質外交”で金正男氏の遺体を引き取った北朝鮮】 暗殺事件後、北朝鮮はマレーシア大使館員とその家族9人の出国を禁止。自国民が人質に取られたため、マレーシア政府は遺体の北朝鮮への搬送と北朝鮮人の出国を許可せざるをえない状況に追い込まれた。棺が載せられた便には、事件に関与した疑いがかけられている北朝鮮大使館の二等書記官や高麗航空の職員らも乗っていた…… <取材・文/日刊SPA!取材班>
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