ドン・レオ・ジョナサン 天才レスラーは“記憶”のなかの映像――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第9話>
初来日は1958年(昭和33年)で、力道山のインターナショナル王座に2度挑戦。
それから12年後の1970年(昭和45年)、日本プロレスの『第12回ワールド・リーグ戦』に出場。ジャイアント馬場と同リーグ戦・決勝戦を争った(ドロップキックをかわされたジョナサンが股間をトップロープに強打してフォール負け)。
対戦相手を背中合わせで頭上高く抱え上げてそのままの体勢で豪快に振りまわすフィニッシュ技は、日本ではハイジャック・バックブリーカーと命名された。赤軍派による“よど号乗っ取り事件”が起きた年で、“ハイジャック”は流行語だった。
1972年(昭和47年)3月には国際プロレスの『第4回IWAワールド・シリーズ』に参加し、ここでモンスター・ロシモフこと若き日のアンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチが実現した。
この試合は同年5月にカナダ・モントリオールに逆輸入され、“バトル・オブ・ザ・ジャイアンツ=巨人たちの闘い”としてモントリオールのプロレス史に残るスーパー・カードとなった(ジョナサンの反則勝ち)。
ジョナサンは41歳。ロシモフ(モントリオールでのリングネームはジーン・フェレJean Ferre)はまだ26歳の若手だった。ロシモフがアンドレ・ザ・ジャイアントに改名し、全米ツアーをスタートするのはこの翌年のことだ。
31年間の現役生活でNWA主要エリア、ロサンゼルスWWA、カナダ全域、AWAエリアなどを長期ツアーし、どのテリトリーでもつねにメインイベンターのポジションにあったが、ジョナサンがなぜNWA世界ヘビー級王者になれなかったかはプロレス史の七不思議のひとつとされている。
1961年、ドクターⅩ(ビル・ミラー)を下してオマハ版AWA世界王座を奪取。1975年には南アフリカ共和国でヤン・ウィルキンスを下し世界スーパーヘビー級王座、ヨーロッパではEWU世界ヘビー級王座、CWA世界ヘビー級王座を獲得したが、いずれも短期間で“返品”した。
現役選手としての最後の試合は、アンドレ、ロディ・パイパーとトリオを結成して“プレイボーイ”バディ・ローズ&シープハーダーズ(ブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムス)と対戦した6人タッグマッチだった(1980年3月10日=カナダ・バンクーバー)。
●PROFILE:ドン・レオ・ジョナサン Don Leo Jonathan
1931年4月29日、ユタ州ハリケーン出身(ソルトレークシティー近郊)。本名ドン・ヒートン。1949年から1980年まで31年間、現役で活躍。1963年からはカナダ・バンクーバーに定住。日本でのニックネームは“人間台風”。70年代ファッションの太いもみ上げがトレードマークだった。国際プロレス(ストロング小林とのシングルマッチ)、全日本プロレス(1975年の『オープン選手権』、1978年の『第6回チャンピオン・カーニバル』)での試合はYouTubeで発見することができる。引退後はバンクーバーでダイビング・ショップを経営。
※文中敬称略
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文/斎藤文彦
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