ザ・デストロイヤー “白覆面の魔王”はニッポンのセレブリティー――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第18話>
デストロイヤーに変身したバイヤーはそれから2カ月後、サンディエゴでブラッシーを倒してWWA世界ヘビー級王者となった(1962年7月27日)。デストロイヤーはそれから約30年間、マスクをかぶってリングに上がりつづけることになる。
“覆面の世界チャンピオン”となったデストロイヤーは、WWA世界王者として日本にやって来た。
力道山対デストロイヤーのタイトルマッチをオンエアした『プロレス中継』(日本テレビ系)は64パーセントの視聴率を記録(1963年=昭和38年5月24日=東京体育館)。
この“64パーセント”という驚異的な数字は、テレビ番組の視聴率を調査した「全局高世帯視聴率番組50」の第3位に現在でもランクされている。
また、1965年(昭和40年)2月26日放映分のデストロイヤー対豊登のWWA世界戦も51.2パーセントの高視聴率を記録。この数字も同視聴率調査の第34位にランクされている。
プロレス中継番組(民放地上派)で「全局高視聴率番組50」に登場しているのはこの2回放映分だけで、それだけでもデストロイヤーの一般的知名度の高さ、テレビ的な人気の高さを知ることができる。
デストロイヤーは初来日から7カ月後の1963年12月に再来日し、こんどは力道山が保持するインターナショナル王座に挑戦した。
この試合は1-1のタイスコアのあと、デストロイヤーの足4の字固めがかかったまま場外カウントアウトのドローに終わった(同12月4日=大阪府立体育会館)。
それから4日後、力道山は赤坂のナイトクラブで暴漢に腹部を刺され、1週間後(同12月15日)に入院先の病院で帰らぬ人となる。デストロイヤーは、力道山と最後に闘ったレスラーとなったのだった。
1960年代後半、デストロイヤーはもうひとつのアイデンティティーとなる黒いマスクと黒のロングタイツのドクターXに変身し、ミネアポリスに転戦する。
北部AWAのリングには大ボスのバーン・ガニアをはじめ、ディック・ザ・ブルーザー、クラッシャー・リソワスキー、ビル・ワットBill Watts、ウィルバー・スナイダー、ボボ・ブラジル、エドワード・カーペンティアといったそうそうたるメンバーが顔をそろえていた。
黒マスクのドクターXに変身したデストロイヤーは、V・ガニアを下しAWA世界ヘビー級王者にもなった(1968年8月17日=ミネソタ州ブルミントン)。
ドクターXとしての来日を望む声もあったが、このプランは実現しなかった。デストロイヤーは日本では“白覆面の魔王”であることにこだわった。
デストロイヤーがデストロイヤーとしてのキャラクターを封印したのは、AWAをサーキットした3年間だけだった。
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