ダスティ・ローデス おいらはアメリカン・ドリーム――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第41話>
ハーリー・レイス(1979年8月21日=フロリダ州タンパ、1981年6月21日=ジョージア州アトランタ)、リック・フレアー(1986年7月26日=ノースカロライナ州グリーンズボロ)を下し、NWA世界ヘビー級王座を通算3回獲得したが、いずれも短期間でベルトを失った。
これはサム・マソニックNWA会長がローデスのような典型的なショーマン・タイプを好まなかったため、チャンピオンの“人選”から除外されたためとされる。
ローデスの“チャンピオン誕生シーン”はマソニック会長のおヒザ元のセントルイスではなく、いずれもタンパ、アトランタといった南部エリアで起きた一瞬のドラマだった。
マソニック会長が1982年1月に引退するとNWAそのものの内部分裂がはじまり、1983年以降はNWAの実権(タイトル運営権)がノースカロライナ州シャーロットのNWAクロケット・プロモーション(ジム・クロケット・ジュニア代表)の手に移った。
ローデスはNWAクロケット・プロの役員に就任して現役レスラーとプロデューサーのマルチ・プレーヤーとしての手腕を発揮し、“スターケード”“グレート・アメリカン・バッシュ”といったイベントをプロデュース。
ウォー・ゲーム、スキャッフォールド(ハシゴ)・マッチ、バンクハウス・ブロールといった数かずのデスマッチ、ギミック・マッチを発案した。
NWAクロケット・プロがテッド・ターナー・グループに身売りし(1988年11月)、新団体WCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)が発足すると、ローデスもWCWと契約。
ジム・ハードWCW副社長との衝突でWCWを解雇されると、ライバル団体WWEに移籍。1991年、ハード副社長失脚後、古巣WCWに復帰し、再びプロデューサーをつとめた。
WCW崩壊後は2001年にフロリダに新団体TCW(ターンバックル・チャンピオンシップ・レスリング)を設立。
TNA(トータル・ノンストップ・アクション)では番組プロデューサーもつとめつつ、60代に手が届くまで現役選手としてもリングに上がりつづけた。
2007年、WWEホール・オブ・フェームで殿堂入り。新ブランドNXTのゼネラルマネジャーとしても活躍した。
●PROFILE:ダスティ・ローデスDusty Rhodes
1945年10月11日、テキサス州オースチン出身。本名バージル・ライリー・ラネルズ・ジュニア。NWA世界王座通算3回保持。得意技はバイオニック・エルボードロップ。トレードマークは金髪のカーリーヘアとダスティ・ウォーク。NWAフロリダ―NWAクロケット・プロ―WCWではプロデューサーとして活躍。2007年、WWEホール・オブ・フェーム殿堂入り。2015年6月11日、腎臓疾患による合併症で死去。69歳だった。ふたりの息子、ゴールダスト(ダスティン・ラネルズ)とコーディ・ローデス(コーディ・ラネルズ)もレスラー。
※文中敬称略
※この連載は月~金で毎日更新されます
文/斎藤文彦
1
2
※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス読本」と書いたうえで、お送りください。
※日刊SPA!に掲載されている「フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー」が『フミ・サイト―のアメリカン・プロレス講座』単行本になり、電波社より発売中です
※日刊SPA!に掲載されている「フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー」が『フミ・サイト―のアメリカン・プロレス講座』単行本になり、電波社より発売中です
『フミ・サイトーのアメリカン・プロレス講座 決定版WWEヒストリー 1963-2001』 WWEはいかにして世界を征服したのか?幾多の危機を乗り越え、超巨大団体へと成長を遂げたその歴史を克明に描く「WWEの教科書」 |
この連載の前回記事
この記者は、他にもこんな記事を書いています
ハッシュタグ