更新日:2022年12月14日 01:27
スポーツ

ディック・マードック テキサスと日本を愛した男――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第42話>

 日本プロレス、国際プロレス、全日本プロレス、新日本プロレスの常連外国人選手として通算54回来日。  新日本プロレスとUWFの業務提携時代(1987年=昭和62年)、マードックとシングルマッチで対戦した前田日明は「いい汗かかせてもらった」とコメントした。  マードックが日本での活動に重点を置いた理由はふたつあった。  ひとつは日本のプロレス団体とそのシリーズ興行のスタイルがマードックにとってストレス・フリーだったこと。もうひとつは、日本人と日本の文化をたいへん気に入ったことだった。  団体サイドがスケジュールを管理し、新幹線と飛行機と大型バスによる移動、ホテルの予約やチェックインとチェックアウトを自分でしなくていいツアー生活がマードックには天国のような暮らしに思えた。  街のいたるところにビールの自動販売機があるのも夢のようだったし、日本の熱いお風呂が大好きだった。  かんたんな日本語の日常会話も身につけ、居酒屋では「オネーサン、ビール、イッポン、ココ、クダサイ」「チェック、ベツベツ」が十八番のフレーズだった。  日本のプロレス団体のファイトマネーはとびきり高く、来日中はほとんど経費を使う必要がなかった。  日本における思い出の一戦は、『86IWGPリーグ戦』決勝戦でのアントニオ猪木との対戦ということになるのだろう(1986年=昭和61年6月19日、東京・両国国技館)。  新日本プロレスと契約切れ以降はFMW、IWAジャパン、W★ING、WAR、プロフェッショナル・レスリング藤原組のリングに上がった。  1996年、ホームタウンのアマリロにプロレスを復興させるため新団体“ブラスト・フロム・ザ・パスト・レスリングBlast From The Past”を設立。  直訳すると“過去からの一撃レスリング”になるが、ブラストとパストがライミング(押韻)になったダジャレのようなネーミングだった。  コンセプトはプロレスとロデオのコラボレーションで、アマリロのローカル・バーを拠点に数回の興行をおこなった。  マードックは毎晩、友人たちといっしょにビールを飲みながら新団体の構想を練っていたが、その夜だけは「家に帰って寝る」といい残していつもの酒場をあとにしたという。  キャニオンの自宅に帰ったマードックは、着替えもせずにカウチによこになったまま帰らぬ人となった。49歳だった。 ●PROFILE:ディック・マードックDick Murdoch 1946年8月16日、テキサス州アマリロ出身。本名ホイト・リチャード・マードック。1964年、デビュー。1968年(昭和43年)、日本プロレスの『ダイナミック・シリーズ』に初来日。全日本プロレスではジャンボ鶴田を下しUNヘビー級王座を奪取(1980年=昭和55年2月23日、鹿児島)。通算54回来日。元ミズーリ・ヘビー級王者。アドリアン・アドニスとのコンビでWWE世界タッグ王座を保持したこともあった(1984年)。1996年6月15日、テキサス州キャニオンの自宅で心臓発作で急死。 ※文中敬称略 ※この連載は月~金で毎日更新されます 文/斎藤文彦
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