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ディック・マードック テキサスと日本を愛した男――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100<第42話>

 ディック・マードック テキサスと日本を愛した男<第42話>

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第42話は「ディック・マードック テキサスと日本を愛した男」の巻(イラストレーション=梶山Kazzy義博)

 実力的には世界チャンピオン・クラスといわれつづけながら、あくまでもマイペースでのんきなプロレス人生を歩んだ天才肌の職人レスラーだった。

 父フランキー・ヒル・マードックFrankie Hill Murdochは1940年代から1950年代にかけてドリー・ファンク・シニアのライバルとしてテキサスで活躍したレスラーで、ディック・マードックとドリー・ファンク・ジュニアが出逢ったのは、ドリーが9歳、マードックが4歳のときだったという。

 マードックはドリー、テリー・ファンク、ダスティ・ローデス、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディらと同じウエスト・テキサス州立大出身ということになっているが、マードックがじっさいに大学に籍を置いたのは1セミスター(学期)だけで、フットボールの練習には出たが授業に出席したことはほとんどなかった。

 プロレスラーとしてのキャリアはハイスクール卒業(1964年6月)と同時にはじまり、デビュー当時はキラー・カール・コックス(本名ハーブ・ジャーウィッグ)との師弟コンビで活動。このときにのちのマードックのトレードマーク技となる垂直落下式ブレーンバスターをコックスから伝授された。

 1968年に相棒ダスティ・ローデスと“伝説のタッグチーム”ザ・テキサス・アウトローズを結成し、デトロイト、AWA、インディアナ、フロリダなど全米の主要テリトリーを約5年間にわたってサーキット。

 アウトローズのモチーフとなった“本家”ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーとの因縁マッチ・シリーズをはじめ、各地区のタッグ部門の主役をつとめた。

 ふたりともどちらかといえばシングルプレーヤー志向だったため、アウトローズは1974年にいったん解散し、それからは気が向いたときだけタッグを組んで試合をする“つかず離れず”の関係になった。

 30歳のときにマードックはドリー&テリーのザ・ファンクスからアマリロの興行権を買収し、プロモーター兼業を試みたことがあったが、テリトリーはたった3年で閉鎖(1977年-1979年)。

 おたがいの父親の代からつづいていたローカル団体をつぶしてしまった。マードックもファンクスもリングの上では千両役者だったが、どうやら経営者向きではなかった。

 “練習嫌い”といわれ、試合はつねにぶっつけ本番だったが、立ってよし、寝てよしのオールラウンド・プレーヤーで、身長190センチ、体重125キロの巨体でドロップキック、フライング・ヘッドシザースを“隠し技”にしていた。

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常連外国人選手として54回来日

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